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ミニエー銃の編集履歴

2020-09-28 09:02:43 バージョン

ミニエー銃

みにえーじゅう

ミニエー弾を使用する銃器。

概要

ミニエー銃(ミニエーじゅう、Minié rifle)は、パーカッションロック式(雷管式)の前装式歩兵銃である。プリチェット弾を使う銃としては最初期の物で1849年にフランス陸軍のクロード・エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。


本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、ライフルド・マスケットとも呼ばれる。従来使用されていたゲベール銃(マスケット銃の一種)の銃身に改修を施す方法で製造された。ミニエー弾と呼ばれる独特の弾薬を使用した。


ミニエー銃は1850年から60年まで製造、1850年から70年までの約20年間しか使用されなかったが、銃砲史上最も有名な小銃方式のひとつであり、主に英国のエンフィールド工廠、米国のスプリングフィールド工廠などで多量に生産され、クリミア戦争南北戦争などの大戦争で使用され、およそ数十万人がこの銃の犠牲になったと推定される。


旧式化が明らかになると、後装式銃に改造されたり、アジアやアフリカなどに輸入されたりした。


陸戦に与えた影響

ミニエー銃は出現当時としては桁外れに強力な銃器であり、エンフィールド銃を例に取れば有効射程は一挙に300ヤード(約270m)とマスケット銃の3〜6倍、ライフルの1.5倍に延長され、最大射程は1000ヤード(約914m。これは当時の砲の射程にあたる)。


ミニエー銃とその派生小銃はそれまでの陸戦で用いられていた戦術を大きく変えてしまった。敵味方双方の装備が有効射程50ヤード足らずのマスケット銃である事を前提とした戦列歩兵がミニエー銃を装備して相対した時、双方ともそれまでとは比較にならない損害が発生する事となった。そしてどちらか片方の部隊が発砲した時、もう片方の部隊が壊滅する事が戦闘内で多発した。


この時代の戦争を描いた映像作品、例えば南北戦争が題材のグローリーや、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を描いた1864などでは、戦列歩兵の陣形を取った部隊が敵陣まで漫然と徒歩でにじり寄っていき、敵方のミニエー銃の一斉射撃に次々と薙ぎ倒されていくという、後年の第一次世界大戦や日露戦争などの映像作品における重機関銃に銃剣突撃で立ち向かう構図に類似した描写がされており、ミニエー銃が如何に殺傷能力の高い兵器であったか、そして用兵側のミニエー銃の威力に対する理解が如何に不足していたかという不条理が淡々と描き出されている事が多い。


ミニエー銃は1850年代中盤にフランスやイギリスなどに実戦配備されて以降、概要で記述した南北戦争やクリミア戦争の他にも、インド大反乱太平天国の乱第二次イタリア独立戦争メキシコ出兵普墺戦争三国同盟戦争太平洋戦争(1879年-1884年)など世界各地の陸戦に投入され、太平天国の乱における常勝軍のように、旧来のマスケット銃で武装した大軍団が寡兵のミニエー銃装備部隊に完膚なきまでに瓦解させられる事例がしばしば発生した。


また、弾頭が回転しながら人体に食い込んでいくミニエー弾は、従来の丸玉よりも人体に対する破壊力が遥かに大きく(文字通り、手足が千切れ飛ぶほどの威力を持つ。)、弾頭に塗布された動物性油脂はしばしば銃創に深刻な感染症や壊疽を発生させ、傷痍軍人の予後を大いに悪化させる要因ともなった。

そして、当時の医療技術では、ミニエー銃が原因でできた怪我や銃創を治せなかったため、感染症や毒が回る前に手足を切断される事が多かった。


その後

1860年代に金属薬莢を使用する連発銃が登場すると、ミニエー銃は他の多くのライフルド・マスケットと同様に時代遅れの小銃となりつつあり、1864年にスナイドル銃に類似した構造の側方開閉後装式のタバティエール銃に改装された。スナイドル銃の側方開閉ブリーチが日本語で煙草入れ(スニフ・ボックス)を意味する莨嚢式(ろくのうしき)と呼ばれるのは、このタバティエール銃にちなんだものである。


そのタバティエール銃も普仏戦争の前には単発ボルトアクション式単発銃のシャスポー銃に置き換えられ(しかし、シャスポー銃には致命的な欠点があり、実用品には程遠かったため、タバティエール銃はシャスポー銃とともに並行使用された。)、金属薬莢化改装のグラース銃を経て無煙火薬を用いた革新的な連発銃(反復式小銃)ルベルM1886小銃へと繋がっていく。


他にも、アジアやアフリカなどにも輸入された。


日本のミニエー銃


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江戸幕府は幕末の元治元年(1864年)にオランダ製ミニエー銃(Infanterriegeweer M1861)を採用した。しかし当時は南北戦争が終結直後であったため、アメリカから余剰武器のエンフィールド銃が約5万挺も輸入され同時に幕軍に配備されたほか、佐幕派・倒幕派双方の諸藩も制式小銃として購入・運用した。


幕末の日本には、オランダ、フランス、ベルギー、イギリス、アメリカ、オーストリアなど各国のミニエー銃がもたらされ、戊辰戦争において弾薬補給が混乱した話が伝えられている。

そして、幕軍も新政府軍も主力はエンフィールド銃で、戦跡から出てくるのはほとんどがプリチェット弾である。箱館戦争では、新政府軍の装備するスナイドル銃と連発式のスペンサー銃は全軍の5%にも満たなかった。箱館政府軍が武装解除した際に引き渡された装備の内訳は、エンフィールド銃(二ツバンド三ツバンド)1,600挺に対しスナイドル銃(元込め銃)107挺だった。


幕府は本銃の配備と同時に、イギリスから同銃の操作・運用に関する資料を輸入し、当時幕府翻訳方であった福沢諭吉に翻訳させた。この操作マニュアルは「雷銃操法」と題され、のちに『福沢全集』に収録された。


幕末に坂本龍馬がミニエー銃400丁を買い付けていろは丸に乗せて運搬中に紀州藩の船と衝突し沈没したと主張したが、近年行われたいろは丸の調査ではミニエー銃は見つかっていない。


ミニエー銃の派生

ミニエー銃は、欧米諸国で普及し、1860年代まで軍用銃の主流となっていた。ただ、ミニエー銃の口径や弾底部の拡張方式は、各国がそれぞれ独自のもの採用しているため、一定ではない。


エンフィールド銃

1853年にイギリス軍が開発・採用したライフルマスケットで、完成度は極めて高かった。弾丸はプリチェット弾、後にエンフィールド・ミニエー弾を使用する。アメリカの南北戦争で南軍の主力銃として大量に使用された。戦後60万挺が払い下げられ、また海外にも輸出され、幕末の日本にも大量輸入された。正式名称は『エンフィールド パターン 1853 ライフル-マスケット』で、イギリス軍の制式小銃史上では、この後に銃身の仕様を変更したエンフィールドM1858やエンフィールドM1859、エンフィールドM1860などが製造され、1861年にはマスケット短銃のエンフィールドM1861マスケトゥーンも登場している。1867年以降はこの銃をベースとしてスナイドル銃に改造され、制式配備が継続される事例が多かった。


スプリングフィールド銃

アメリカのスプリングフィールド造兵廠で開発されたミニエー銃で、南北戦争では北軍の標準装備だった。南軍でも鹵獲品やコピー(リッチモンドライフル)などが使用され、南北戦争中最も標準的だった小銃である。頑丈で信頼性は高かったが製造費節減のためにライフリングが3条に減少しており、命中精度では南軍の制式装備だったエンフィールド銃に劣っていた。正式名称は『スプリングフィールドM1863』で、これ以前にはスプリングフィールドM1861や紙テープ式銃用雷管を用いるスプリングフィールドM1855、滑腔銃身だがミニエー弾を用いる事もできたスプリングフィールドM1842などが存在していた。米国内では南北戦争終結前よりボルトアクションなどと比較して時代遅れの方式とみなされ、トラップドア・スプリングフィールドと呼ばれる後装式のスプリングフィールドM1865が登場し、多くのスプリングフィールド銃がこの改造を受けた。アメリカではトラップドア・スプリングフィールドの他にスナイドル銃に似た側方開閉ブリーチ方式のジョスリン・ライフルが1850年代半ばより提案されており、スプリングフィールド銃の一部がジョスリン・ライフルとしての改装を受けたが、開発者のベンジャミン・フランクリン・ジョスリン本人が米連邦政府と度々意見の衝突を起こす人物であった事や、1850年代半ばのアメリカではアメリカ海軍程度しか後装式ライフル銃に興味を示さなかった事から、トラップドア・スプリングフィールドほど多くは製造されなかった。


関連タグ

マスケット銃


外部リンク

ミニエー銃 - Wikipedia

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