海洋堂とは
大阪府門真市に本社を構える日本の玩具メーカー。
世界屈指の造形技術を誇っており、動物・鉄道・ロボットといったありとあらゆるジャンルの造形を手がけている。また、商品を制作した造形士をそれぞれに記載し、作家性をセールスポイントにするという独特なやり方を貫いている。
これは海洋堂という会社が造形士たちに支えられていることの現れである。本社ビルには映画「大魔神」にて撮影に使用された大魔神像が”造形の守り神”として鎮座している。
沿革
宮脇修が経営していた貸本屋を改装し、1964年に模型店として出発した。その品揃えの豊富さと遊び心満載な店構えから人気を博し、少年達がひっきりなしに遊びに来る人気店になっていった。
宮脇修の遊び心に溢れた、ともすれば素っ頓狂な経営方針から突拍子も無い事業を繰り返した結果、経営不振に陥るほどの失敗に陥ることもも多々あったが、そのたびに時流と熱心な顧客に助けられ、海洋堂は生き残り続けた。
また、店長の宮脇修と修一親子は常連客とも仲が良く、彼等が店で買い物もせずたむろしていても文句も言わず食事をおごったり、常連客も無償で店を手伝ったりと不思議な絆を育てていった。
この常連客の中から、後に海洋堂を世界に知らしめる造形集団が生まれてゆくことになった。
1980年代にアニメ・特撮ブームが巻き起こると、プラモデルや玩具も飛躍的に売れたが、当時はまだ玩具メーカーの技術も発展途上で造形が甘く、売れ筋キャラクターしか商品化していなかった。ここから、「メーカーが作るプラモを改造するだけでは駄目だ」「メーカーが作らないのなら自分たちで作ってしまおう」という風潮が造形マニア達の間で生まれるようになった。これを受けて、海洋堂と常連客たちは試行錯誤を重ね、「シリコーンゴムで作った型に無発泡ポリウレタンを流し込んで複製する」という手法を編み出し、後にガレージキットと呼ばれるジャンルを確立。店の会員向けに販売するようになると、その造形の完成度から人気を博した。
海洋堂の造形技術の高さはこの頃から話題となり、造形マニア達の間で評判を呼ぶようになった。ある日、同じくガレージキットの販売を手がけていたゼネラルプロダクツ(後のガイナックス)を率いる岡田斗司夫が海洋堂に足を運び、商売敵の前で(本人は挑発のつもりは無かったが)自信満々に持論を展開した。負けん気の強い宮脇親子と常連モデラーたちはライバル意識を燃やし、後にゼネラルプロダクツのように「版権を取って商品を売る」という手法に着手し、それまでマイナーだったガレージキットに市民権を持たせ、より多くの人に販売するようになった。後にゼネプロはガレージキット販売から撤退し、彼等が主催していたガレージキット最大の祭典である「ワンダーフェスティバル」の引き継ぎを海洋堂が担うことになった。
90年代半ば、「スポーン」の作者であるトッド・マクファーレンがマクファーレン・トイズを起業し、自らのキャラクターを可動フィギュア化して販売し大ヒットを飛ばしたことに刺激を受けた海洋堂は自社でも市販可動フィギュア制作を開始することにした。造形面では引けを取らない海洋堂ではあったが、市販品を製作販売するほどの資本力は流石に無かった。このため、海洋堂は人件費の安い中国で商品を生産することにした。中国メーカーと怒号飛び交うセッションを繰り返した末に何とか生産にこぎ着け、大人気シリーズである「北斗の拳」の可動フィギュアを市販品として流通させることに成功した。
「新世紀エヴァンゲリオン」の可動フィギュアも販売したが、造形士である山口勝久が、画期的な可動方式をこれに組み込んだ。それまでの可動フィギュアは「間接部を大きくすることで動きやすくる」という手法で製作されており、必然的に関節部分が肥大化し造形としての完成度を損なうことが多々あった。山口が開発した手法は「フィギュアにポーズを取らせる角度を予め設定し、それが出来る最小範囲の可動軸で済ませる」という逆転の発想を持ち込んだのである。ダイナミックでアクロバティックな動きを再現しつつ造形面でも高い完成度を維持していたこのエヴァシリーズは大ヒットを飛ばし、この手法は後に「山口式可動」と呼ばれるようになった。
チョコエッグシリーズのオマケフィギュアを手がけたことで造形マニア以外の層にも広くその名が知れ渡るようになり、現在も市販アクションフィギュアシリーズである「リボルテック」を展開している。