長距離砲の二塁手として、阪神タイガースとオリックスブルーウェーブ(現・オリックスバファローズ)で活躍した大阪府出身の元野球選手。
1985年の日本シリーズ制覇の立役者の1人である。
その後、阪神タイガースと、オリックスバファローズの監督を務めた。
アホの坂田(坂田利夫)と競演したおでんのつゆ「どんでん」のCMや、試合後のインタビュー「そらそうよ」で有名。
阪神の優勝パレードには監督で1回(2005年)、現役時代に1回(前述の1985年)、そして幼少時代に1回参加している。原辰徳とは大学日本代表のチームメイトの間柄。
監督として
とにかく堅実性を重視することが多く、著書では「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と語っているほど。
また基本的にサインを出さず、選手に任せるというスタンスをとっていたことから、「監督の仕事を放棄しているのでは?」という批判もあった。
阪神監督時代に起用した三人のリリーフ、「ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之」のいわゆる「JFK」は後の球界に大きな影響を与えたことでも知られている。
2010年のオリックス監督時代、セ・パ交流戦優勝も狙えるポジションにいた際、「優勝」という言葉を避け「アレ」と言い換えていた。
これは「あくまで平常心で戦うため」という狙いがあったようで、結果的に交流戦優勝を果たすこととなった。
人物
実家は阪神の往年の名選手・三宅秀史の有力なタニマチであり、幼少期に優勝パレードに参加したのもこの縁があったため。生まれついてのトラキチがドラフトのくじの末やってきたということもあり、入団時は相当な注目を受けた。また、母親が大学卒業後は大阪に帰ってきてほしいと望んだことから「在阪ならどこでも良い」と語っていた。
阪神、オリックスと関西の2球団を渡り歩いたことでも知られているが、(当時阪神が少年野球を運営していなかったため)南海ホークスが運営していた少年野球チームでのプレー経験もある。
代名詞とも言える「そらそうよ」始め、主語を抜かして話すことが多い為に「どん語」と呼ばれている。
阪神監督時代は特に難解だったようで、「翻訳」が必要なことも多く、現場では赤星憲広などがその役目を果たしていたという。赤星が「通訳」を始めたきっかけは、選手会長時代に岡田と会話を交わすうちに「(岡田)監督はすごいこと(※とても高度な野球理論のことか)を考えている。これをチームみんなが理解すれば(もっと)勝てるようになる」と思い至ったからだそうな。(そんな赤星でも監督の指示が理解できずに度々怒られた経験があるらしい)
「復刻ユニ」の発案者
阪神監督時代、2005年に開始した交流戦にて「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」ということから1978年から81年に使用されたデザインを基にした「復刻ユニ」で試合に臨むことを提案。
日曜祝日・夏季限定で着用する所謂「サードユニフォーム」の使用は他球団でも前例があったが、かつてのデザインを復刻させるというのは初の試みだった。
後に他球団でも公式戦で復刻ユニを着用する試合が組まれる事が増え、2010年には「GREAT CENTRAL」というセリーグ6球団による合同プロジェクトも行われた。