概要
一条天皇とは、平安時代中期に在位した天皇(第66代)。
天元3年(980年)、第64代・円融天皇の第一皇子、藤原兼家の娘・詮子(女御)を母として生誕。諱は「懐仁(やすひと)」という。
永観2年(984年)、5歳にして立太子、寛和2年(986年)6月、藤原兼家、藤原道兼の陰謀により、花山天皇が19歳の若さで出家し退位、懐仁親王は7歳で践祚・即位した。
天皇の外祖父となった藤原兼家は摂政となって実権を握り、兼家の一門は栄達をほしいままにした。
このなかには後に藤原摂関家の全盛時代を築きあげる藤原道隆、道兼、道長兄弟が含まれており、永延2年(988年)1月、道長は23歳で参議を経ずに権中納言に任じられた。
永祚元年(989年)、道隆が内大臣、道兼が権大納言、兼家が太政大臣を勤め、兼家亡き後は道隆、道兼が相次いで摂政・関白を勤め、その後は道長が内覧の右大臣、左大臣を歴任、県政を伸ばした。
一条天皇には中宮として、道隆の娘・定子(ていし)、道長の娘・彰子(しょうし)の二后があり、天皇に二人の后は前例がなかったという。
天皇は11歳で入内した定子を寵愛したとされるが、定子の兄・藤原伊周・隆家が誤って花山院に矢を射かけたことにより出雲や太宰府に流されたことにより落飾、不遇をかこった。
道長の娘・彰子は道理をわきまえたつつましやかな人柄、思いやりのある性格を伝えられている。彰子は天皇との間に敦成親王(あつひらしんのう、第68代・後一条天皇)、敦良親王(あつながしんのう、第69代・後朱雀天皇)をもうけたが、父親の権勢がまさって第一皇子を越えてわが子が立太子した際には謙譲の意を表したという。
朝廷には、定子に仕えた清少納言、彰子に仕えた紫式部、藤原斉信、藤原公任、藤原行成、源俊賢などの有能な人材が輩出したが、藤原摂関家の全盛期にあり、天皇は朝政に関与できぬまま寛弘8年(1011年)に譲位し、同年6月に崩御した。