概要
文久3年(1863年)2月、清河八郎ら「浪士組」は将軍警護のために京に上洛。しかし今日に着くや否や創設者の清河が実は将軍の警護などではなく、尊皇攘夷の先鋒を務めるために浪士組を結成し浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷に提出し、幕府から切り離そうとしてる計画が発覚。
幕府は直ちに浪士組を江戸へ帰還させた。(この時清河に反対した芹沢鴨、近藤勇ら24名が京に残留し京都守護職の会津藩御預りとなり、後にあの新撰組を結成する。)
しかし、同年4月に清河が幕臣佐々木只三郎らに暗殺され清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失い、幕府は浪士組を新徴組へと再組織し10月に幕府より江戸市中警護、海防警備の命令を受けると、元治元年(1864年)には庄内藩酒井家の御預かりとした。
慶応3年(1867年)10月頃、薩摩の西郷隆盛の指示で相楽総三らが討幕派の武士、浪人、博徒たちを使って放火や、掠奪・暴行などを繰り返しては幕府を挑発し開戦に持ち込むことにあった。彼らは後に薩摩御用盗と呼ばれ、江戸市中を取り締まる新徴組と抗争を繰り広げた。
同年の12月25日、新徴組と庄内藩は江戸の薩摩藩邸に討ち入り江戸薩摩藩邸の焼討事件を引き起こしこれが戊辰戦争の発端となる。
その後、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し将軍徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、新徴組は庄内藩士達と共に庄内へ入り、戊辰戦争では庄内戦争など東北各地を転戦する。終戦後は新徴組は解散し、生き残った隊士は庄内地方や北海道で開墾作業に従事した。
特徴
新撰組の浅葱色のダンダラ羽織のように特徴ある隊服はなかったが揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内藩酒井家の紋所であるかたばみの提灯を下げて市中を練り歩いたそうだ。
そして、五十人二組となって昼夜交代で毎日市中の巡回を始めると、江戸の治安が次第に回復していったため江戸市民から酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙るとまで謳われるようになった。
その一方、新撰組と同じく浪士で結成されてたこともあり、隊士たちが見巡りの途中、大店や芝居小屋へ大勢で上がりこんでは無銭飲食や遊興を受けるなどの狼藉も目に余ったためうわばみよりもかたばみこわいと恐れられたそうな……
新撰組との関係や違い
新撰組とは兄弟組織の関係だが近藤、土方ら浪士たち自身で指揮されていた新選組と違い、直接庄内藩によって指揮されていた。
また新徴組には沖田総司の義兄の沖田林太郎がいて、他にも根岸友山など壬生浪士組時代に脱退した元同士が何人かいた。
主な隊士・関係者一覧
酒井忠篤 | 出羽庄内藩の第11代藩主。 |
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石井武膳 | 新徴組取扱頭取。 |
白井重遠 | 取扱役。 |
松平忠敏 | 支配。 |
河津祐邦 | 支配。 |
中條金之助 | 支配。 |
中山信安 | 支配定役。 |
柏尾馬之助 | 剣術教授方。 |
玉城織衛 | 剣術教授方。 |
根岸友山 | 取締役。元壬生浪士組の同士。 |
遠藤丈庵 | 隊士。元壬生浪士組の同士。 |
清水吾一 | 隊士。元壬生浪士組の同士。 |
鈴木長蔵 | 隊士。元壬生浪士組の同士。 |
神代仁之助 | 隊士。元壬生浪士組の同士。 |
祐天仙之助 | 隊士。甲州博徒の一人。 |
中村維隆 | 隊士。後に水戸天狗党に参加し、天狗党の乱で挙兵する。 |
沖田林太郎 | 隊士。義弟は新撰組一番隊組長を務めた、沖田総司。 |
沖田芳次郎 | 隊士。林太郎の長男で沖田総司の甥。 |
中沢貞祇 | 隊士。中澤琴の兄。 |
中沢琴 | 新徴組の女剣士、法神流の使い手。 |