野村利三郎
のむらりさぶろう
新撰組、陸軍隊隊士。
概要
弘化元年(1844年)、美濃国大垣藩または旗本加藤家領内に生まれたとされるが、詳しい出自や経歴は不明。
慶応3年(1867年)秋ごろには新撰組に入隊したとされる。
鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いの敗走を経て、新撰組は流山にて再起を図るが、新政府軍に包囲される。大久保剛を名乗っていた近藤勇は、事態の打開のために野村と村上三郎のみを伴い、新政府軍に投降。村上は使者として戻されるが、近藤の正体が露見すると、野村は近藤とともに投獄される。後に土方歳三、勝海舟らの書簡を届けに来た相馬主計も捕縛され、3人は処刑されることとなったが、近藤の必死の嘆願により野村、相馬は助命され、それぞれ国許の領主に引き渡されることとなった。
野村は加藤家へ引き渡される途中で脱走。同じく脱走した相馬と落ち合い、元彰義隊の春日左衛門率いる陸軍隊に合流し、奥州を転戦。仙台にて土方歳三ら新選組と再会した。
奥州戦線の頃から春日左衛門とは度々衝突しており、蝦夷地渡航後遂に表面化。榎本武揚の仲裁を受けることになった。箱館奪取後は陸軍奉行添役介に就き土方の直属となる。
明治2年(1869年)3月、劣勢となっていた制海権を取り戻すため、新政府軍の甲鉄艦にアボルダージュ(接弦攻撃)を仕掛ける作戦が提案され、野村は土方の幕僚として回天丸に乗り込む。
戦闘が始まると海軍士官大塚浪次郎が「一番」と甲鉄艦に切り込むに続いて野村達も斬り込むが、撤退に間に合わず取り残され、討死した(⇒宮古湾海戦)。遺体は新政府軍によって海に棄てられたとされる。また一説には斬り込む折に目測を誤り海に落ちたという説もあるという。