概要
浅利氏は甲斐武田氏庶流という名族の血を引く非常に格式高い家柄の一族である。
父親は浅利虎在という武田信虎期に活躍した人物であり、信種はその嫡男として誕生。
しかしながら、初見は1566年であり、1569年に亡くなるまでの短期期間でしか活動しておらず、謎の多い人物だったが、山県昌景や跡部勝資と並ぶ重臣中の重臣中であったとされている。
具体的な軍事面での功績は不明だが、信濃侵攻で数々の武功を立てたとされている。実際に武田軍最強と言われる赤備えを騎馬120騎で率いていることを加味すると相当な戦上手だったと可能性がある。
文官としての功績は、朱印奏者としての活躍が残っており、1566年に前年に起きた義信事件に関する起請文で生島足島神社に奉行として起請文に提出した配下の武将の責任者としてチェックする仕事を勤めている。
また、箕輪城の城代に配置されており、西上野衆を率いていたとされている。
1569年に信玄は北条氏康氏政との戦いに踏み切り、牽制の為に小田原城を包囲し、その帰路で北条氏照・氏邦の待ち伏せを三増峠で受けて戦闘となる。見通しの悪い森林かつ斜面を登っている途中だった武田軍は苦戦を強いられる。信種も奮戦するが、馬上で指揮を取っていたところを銃撃を受けて討死した。
なお、浅利隊は軍監として従軍していた曽根昌世が部隊をまとめ上げ、武田軍自体は合戦には勝利した。