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北村克哉の編集履歴

2022-10-17 13:13:38 バージョン

北村克哉

きたむらかつや

北村克哉は、日本の元アマチュアレスリング選手、元プロレスラーで、アマチュアボディビルダー、総合格闘家、YouTuber、スポーツインストラクター.

概要

1985年12月14日生まれ、東京都杉並区出身。

身長182 cm (6 ft 0 in)、体重96~120kg


8歳から15歳まではNBAスラムダンクの影響でバスケットボールに夢中だったが、PRIDEを観てからは格闘家を目指して高校からレスリングに転向。


日本工業大学駒場高等学校、専修大学卒業。

高校時代はフリースタイルで2003年の国民体育大会(国体少年の部)フリースタイル97kg級 1位。

大学はフリースタイル・グレコローマンの選手として、2006年全日本選抜選手権フリースタイル120kg級、2007年全日本学生選手権グレコローマン96kg級、全日本大学グレコローマン選手権120kg級を制した。


2008年の国体よりグレコローマンスタイル専門となり、大学卒業後は専修大レスリング部の先輩馳浩-谷川貞治の関係でFEG(K-1の運営会社)に入社。

2010年にFEGの経営悪化からドン・キホーテに所属を移す。


2008年~2010年までの全日本選手権グレコローマン96kg級三連覇、2009年から2010年まで全日本選抜選手権グレコローマン96kg級二連覇を達成するが国際大会で成績は残せなかった。


2011年6月、日本レスリング協会が記者会見し、日本アンチードーピング機構(JADA)から、北村が、4月の全日本選抜選手権で優勝した際のドーピング検査で陽性を示したとの通知を受けはく奪、陽性が確定した2011年5月17日から2年間、資格停止処分となった。

そのままドン・キホーテを退社しレスリング引退、2013年から2015年末までケビン山崎のトレーニングジム「トータル・ワークアウト」で、パーソナル・トレーナーを務めた。


2015年7月に馳のすすめで、格闘技イベント『巌流島』の第2回公開検証へ参戦。

ボロドバートル・オンダラルを下し、プロデビュー戦を勝利。

大会に観に来ていた、新日本プロレス木谷高明オーナーから新日本プロレスにスカウトされ.2016年1月に入団を発表。


約1年以上の練習生期間を経て、2017年3月13日、福井県産業会館・1号館展示場大会にて岡倫之とのタッグでゲリラズ・オブ・デスティニー(タマ・トンガ & タンガ・ロア)を相手にプロレスデビュー。


2017年11月5日、POWER STRUGGLEの第0試合でデビッド・フィンレーとシングルマッチで対戦。試合後、フィンレーにWORLD TAG LEAGUE出場のためのパートナーに誘われWORLD TAG LEAGUE出場したが全敗。


2017年10月~12月にかけてヤングライオン同士の総当たり戦方式で行われたヤングライオン杯に出場し、5戦全勝で優勝。

2018年1月5日からは北村克哉7番勝負として先輩レスラーとのシングルマッチが組まれたが3月4日の茨城大会で脳震盪を起こした為欠場となり、最終戦は延期。

2019年2月5日、新日本プロレスのHPにて北村が練習中の怪我で手首を痛めプロレスを行うことが困難なため、1月31日をもって新日本プロレスを退団。


プロレスラー引退後、2019年4月1日に自身のInstagramにてIFBBプロボディビルダーを目指すことを示唆。5月8日にYouTubeに「バルクアカデミー」というチャンネルを開設。

(翌年3月20日、YouTubeのチャンネル名を「NORTH VILLAGE」、10月に「バルクアカデミー2 -北村克哉-」に変更。)


2021年10月29日、総合格闘技RIZIN記者会見に出席し、11月20日、沖縄アリーナ大会「RIZIN.32」でのボビー・オロゴン戦が発表された。

総合格闘家としてデビュー戦に臨み、ボビー・オロゴンと対戦。2Rにリアネイキッドチョークで一本負けを喫した。


2022年10月12日、体調に異変を感じ、自ら呼んだ救急車で病院に搬送されたが搬送先の病院で容態が急変し死去した。(36歳没、2日後に公表。)

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