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源仲章の編集履歴

2022-11-14 19:27:52 バージョン

源仲章

みなもとのなかあきら

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した公卿、御家人。

生没年

生年 不詳

没年 健保7年1月27日(1219年2月13日)

人物

河内守・源光遠の子、母は不詳。儒学者、文章博士としても知られる。

父・光遠は宇多天皇の孫・源雅信を祖とする宇多源氏の末流にあたる下級貴族であり、後鳥羽上皇に近臣として仕えただけでなく、在京のまま御家人の資格をもった人物である。

仲章が歴史に現れたのは、正治2年(1200年)頃、京の都において治安の維持と鎌倉幕府との連絡も担当、建仁3年(1203年)には阿野全成の三男・頼全を処刑している。


建永元年(1206年)、後鳥羽上皇廷臣の地位を保侍したまま、3代将軍源実朝の侍読(教育係)として招かれ、鎌倉に邸宅を与えられる。


健保4年(1216年)、政所別当の1人に任じられる。官位も大学頭、相模守を経て、健保6年(1218年)には幕府の推薦により従四位下・文章博士に叙され、順徳天皇の侍読も兼務する。


健保7年1月27日(1219年2月13日)、源実朝の右大臣叙任を祝賀し、鶴岡八幡宮に拝賀であるこの日に実朝とともに公暁(源頼家の子)の一党に襲われ、殺害された。

源氏

源実朝と源仲章は同じ「源姓」ではあるが、源実朝は清和天皇を祖とする清和源氏の末流である河内源氏、源仲章は宇多天皇を祖とする宇多源氏にあたる。

また、仲章自身は後鳥羽上皇に仕える公卿として知られるが、遠縁にあたる武家には源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)のもとに馳せ参じた老将・佐々木秀義らがいる。

関連タグ

平安時代 鎌倉時代 鎌倉幕府 後鳥羽天皇 源実朝

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