余は水蛇(猛毒)を育てた ~ティベリウス
第3代ローマ元首ユリウスクラウディウス家3代当主アウグストスの血族
16歳で元首になる(記録抹殺されたので詳細が不明)
「知的な美少年」らしいがやることなすことが『残酷きまわりなかった』
ガイウス帝 12年 - 41年 治世4年
GAIVS JVLIVS CAESAR AVGVSTVS GERANICVS
名前 | ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス |
(ガーイウス・ユーリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス) | |
古典ラテン語 | Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus |
世没 | 12年8月31日 - 41年1月24日 |
元首任期 | 37年 - 41年 |
ユリウス・クラウディウス朝の皇帝の1人。カリグラ(カリギュラとも表記)の名でよく知られているが個人名からガイウス帝とも呼ばれる。
「カリグラ」は幼少の頃に履いていた小さな軍靴に由来する愛称である。
カエサル家の将軍の子として。
カエサル家家系に属する著名な人物でローマ帝国で最も重用された将軍の一人として尊敬をかちえていた父ゲルマニクス将軍の子として生まれる
カリグラは2歳ないし3歳の幼少時から、軍事作戦で北部ゲルマニアへ行く父ゲルマニクスに同行している。
このときのカリグラは軍靴や甲冑まで含めた特別仕立てのミニチュアの軍装を身につけていたため、これを面白がった兵士たちのあいだでマスコット的存在となった
ティベリウスの『飼い犬生活』
父の死後、カリグラは母アグリッピナの元で暮らしたが、やがて彼女はティベリウスとの関係が悪化したため追放されるにいたり、カリグラはカプリ島に居を移していたティベリウスに引き取られ、そこでティベリウスの個人的庇護を受けながら6年間生活することとなった
元老院に認可され元首に就任~黄金時代
37年3月16日にティベリウスが死去し、その遺産と「プリンケプス」の称号は
共同後継者であるカリグラとティベリウスの養子ティベリウス・ゲメッルスが相続することとなった。
カリグラは元老院からプリンケプスの称号を授与されると、3月28日にローマ入りし、民衆から「我らの子」「我らの星」との歓呼の声をもって迎えられた。
カリグラは「日の昇る所から沈む所まで、すべての世界の」民衆からの尊敬をかちえた最初の皇帝と呼ばれた。
病気と陰謀、豹変
幸先よく統治を開始したカリグラではあったが37年の10月に深刻な病に倒れる。
カッシウス・ディオも若干触れてはいるがこの病気について詳細に書き残している歴史家はフィロンのみである。
カリグラは皇帝になってからというもの入浴と飲酒とセックスに耽溺するようになっていたため、ウィルスに感染したのだとのことである。
カリグラの苦悩を思って悲嘆と同情に暮れたため、ローマ帝国全体が麻痺状態に陥ったとさえ伝えられている。
・・・凄、ローマ人(:゜Д゜)
やがてカリグラは全快しているがこのときの臨死体験こそがカリグラの治世の分岐点になったとフィロンは強調している。
カリグラに変化が起こったとすればそれがいつのことであるのかについてはいくらかの議論がある。
フラウィウス・ヨセフスは即位してから最初の2年間のカリグラは高貴で穏健な君主であったがそれ以降暴君へ変貌していったのだと述べている。
病から立ち直ってすぐにカリグラは彼が回復してくれるならば自分の命を奉げてもよいと誓った忠実な人物を呼び出し約束を守ってもらおうと要求しながら崖から突き落とすなどして何人か殺害した。
またカリグラは妻を追放し、義父のマルクス・シラヌスや
共同元首の息子を虎の餌にする。
従弟で共同元首のティベリウス・ゲメッルスはティベリウスの晩年の『買い子』であった。(カリグラ自身もティベリウスの買い子だったが)
ティベリウスはカリグラのことを『水蛇』と言い嫌悪し『カリグラが皇帝になったらゲッメルスを殺す』と予言した。
これはカリグラが狂気に落ちた後現実のものとなり。
ゲッメルス自体の性格はかなり臆病でありカリグラにいつ殺されるかという強迫観念から解毒剤をのんでいたらしい、当初は咎められなかったが。
ある日カリグラの気に障り。反逆罪を宣告される。
その後ゲメッルスは見世物としてライオンと戦わされの哀れにも餌になった。
シラヌスとゲメッルスを死に至らしめた直接の罪状はカリグラを打倒せんとする陰謀の咎であったという証拠が残っている。
処刑三昧の日々
フィロンの伝えるところによればゲメッルスは自分が皇帝の座に就くためにカリグラが病に臥せっているあいだに陰謀を企てていたという。
シラヌスはカリグラによって正式な裁判にかけられた後に自殺した。
ユリウス・グラエキヌスはシラヌスを起訴するよう命令されたが、これを断ったため同様に処刑された。
ゲメッルスの計画とシラヌスのそれとが関連したものであるのか別個に立てられたものであるのかは不明である。
当時ローマの歴史家スエトニウスはこれらの陰謀はいずれもカリグラによる空想の産物にすぎなかったと結論づけている。
カリグラ惨殺 共和主義者との狂暴
41年1月24日、アウグストゥス神に奉げる笑劇や悲劇を上演していた少年俳優劇団に対して激励の言葉をかけていたカリグラを、皇帝親衛隊将校が呼び止めた。
カリグラは皇帝親衛隊に30回刺されて死亡した。その際にカリグラも『鬼神』のようになり、数名の親衛隊を道連れにしたといわれる。
カリグラの身辺警護をしていたゲルマン人兵士が到着したとき、皇帝はすでに息絶えていた。
護衛兵は怒りと悲しみに打たれ暗殺者とその仲間を討ち殺しただけでは収まらず、罪のない元老院議員や傍観者まで血祭りに上げた。
元老院はカリグラの死を共和制復興の機会として利用しようと試みた。
帝政の支持が消え去らぬことに苛立った暗殺者たちは
カリグラの妻カエソニアを探し出して刺殺し幼い娘ユリア・ドルシッラも頭を壁に叩きつけられて殺された。
しかしカリグラの叔父クラウディウスを見つけ出すことはできなかった。
すでに町を離れて親衛隊の兵舎にかくまわれていたためである。
クラウディウスは親衛隊の支持を得て皇帝に就任したのち、関与したことが明らかになったその皇帝親衛隊全員を処刑するよう命令を下した。
関連
次代☞クラウディウス
参考 まんがグリム童話―教科書が教えない拷問の歴史編 カリギュラ☞