概要
1914年6月28日、オーストリア領サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)にて発生した暗殺事件。
当地を訪問中であった、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫婦フランツ・フェルディナンドとゾフィー・ホテクが、セルビア民族主義者の学生のプリンツィプからの銃撃を受け命を落とした。
暗殺を実行したプリンツィプは、大セルビア主義テロ組織の一員でもあり、その背景には19世紀末から20世紀初頭にかけての、ボスニアに多数居住していたセルビア人によるナショナリズムの高揚と、それに伴ってのオーストリア=ハンガリー帝国からの支配の脱却への機運があった。
この事件を切っ掛けとして、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアとの外交関係は断絶を迎え、前者による後者への攻撃が開始され、第一次世界大戦の引き金となった。
事件の背景
事件の舞台となったサラエボは、ボスニア領における主要な都市の一つであり、1878年のベルリン条約の締結により、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(オーストリア・ハンガリー両国の共同統治地域、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナとは異なる)」の一部として、オーストリア=ハンガリー帝国の統治下に置かれていた。
一方で、このボスニア領に隣接するセルビア王国(現・セルビア・モンテネグロ)は、前出のベルリン条約を機に独立が認められた国家の一つであり、セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国は当初、有効かつ密接な関係を構築していた。
ところが20世紀に入ると、軍事クーデターの発生とそれに伴う皇統の転換により、セルビアは専制君主制から立憲君主制へと移行。結果、セルビア王国はそれまでのようなオーストリア=ハンガリー帝国寄りの姿勢から、一転して親ロシアかつセルビア民族主義的な色彩を濃くしていくこととなり、セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の関係は悪化した。
こうした両国間の関係悪化は、1908年にオーストリア=ハンガリー帝国が宣言したボスニア並びにヘルツェゴヴィナの併合によって、より深刻なものへと発展していった。
元々この2つの地域にはセルビア人が多数居住していた上、当時のセルビア王国は「大セルビア主義」、即ちバルカン半島西部はセルビアに属すべきとの立場を掲げ、国外のセルビア人の「解放」を目指すと同時に、アドリア海への出口の確保を企図していた。ゆえに、併合に反発したセルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国との間で、一時軍事的な衝突にまで発展する事態にまで陥っている(ボスニア危機)。
この一触即発な状態はその後、当初オーストリア=ハンガリー帝国と密約を結んでいたはずのロシア帝国が、様々な事情から一転してセルビア寄りの姿勢を取ることを余儀なくされ、一方ではオーストリア=ハンガリー帝国の同盟相手であったドイツ帝国の介入もあり、最終的に軍事的衝突は回避された一方、セルビア王国がボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を承認することで一応の収束を見た。
が、この一件はセルビア国内における、大セルビア主義の高まりをより促進する格好となり、ボスニア領内においてもそれに呼応して「青年ボスニア」を標する反オーストリア的運動が台頭するようになった。1912年から1913年にかけて、第一次バルカン戦争などを経てセルビア王国がコソボ・北マケドニアの両地域を領有した「軍事的成功」もまた、セルビア人によるナショナリズムの高揚に拍車をかけた。
またロシア帝国も、「パン・スラブ主義」の立場からこれらの動きを支援し、バルカン半島におけるオーストリア=ハンガリー帝国との協調関係を破棄する方向に動いていった。
一方のオーストリア=ハンガリー帝国でも、その支配域内での諸民族の自治要求の高まりから、19世紀の中頃よりオーストリア皇帝がハンガリーだけでなく、ボヘミアの君主も兼ねる(同君連合)ことによる「三重帝国」への改編に向けた構想も持ち上がっていた。
この三重帝国構想は、紆余曲折を経てドナウ連邦構想ともいうべきものへとその性質を変化させていくこととなるが、そうした考えに賛意を示していた一人が、他ならぬフランツ・フェルディナンド大公であった。フェルディナンド大公がこうした考えに傾倒した背景には、彼自身のハンガリー人に対する反感、それに親スラブ的な傾向があったとされ、後者については自身の妻にボヘミア出身のゾフィー・ホテクを迎えたことからも明らかと言える。
しかし、このドナウ連邦構想が実現した場合、それによって成立したスラブ系民族による「第三の王国」が、大セルビア主義に対しての防波堤となる可能性を孕んだものと、セルビア民族統一主義者らからは看做されていた。そしてその危惧は必然的に、ドナウ連邦構想の推進者の一人であったフェルディナンド大公へ強い警戒の視線を向けさせると同時に、彼を暗殺し構想そのものを挫折させることへと繋がっていったのである。
事件の経過
ボスニア領内におけるオーストリア=ハンガリー帝国関係者への暗殺に向けた動きは、ボスニア併合直後の1909年頃より度々起こっており、そのうちの一つであるマリヤン・ヴァレシャニン(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督)暗殺未遂事件は、サラエボ事件の実行役であったガヴリロ・プリンツィプを始め、後続の暗殺者たちにも強いインスピレーションを与える格好となった。
そのような情勢の中、1914年6月にボスニアで行われる予定であった軍事演習に、フェルディナンド大公が視察に訪れることとなった。これに夫の身の安全を危惧して夫人のゾフィーも同行を申し出、大公夫妻は軍事演習の視察の後にサラエボを訪問、新設の運びとなっていた国立博物館の開館に立ち会うという計画を立てた。
かくして6月28日、サラエボ入りした大公夫妻は駐留軍の視察を経て市庁舎に向かうこととなる・・・のだが、その途上には大セルビア主義を掲げたテロ組織「黒手組」の刺客が、密かに大公夫妻の現れるのを待ち構えていたのである。
最初の事件は10:10に発生した。黒手組の暗殺者の一人であるネデリュコ・チャブリノヴィッチが、所持していた爆弾を大公夫妻らの車列へと投げつけたのである。が、この爆弾は大公夫妻の乗っていたオープンカーに弾かれ、後続の車両を吹き飛ばして20人前後の負傷者を出すのみに留まった。チャブリノヴィッチ以外にも、ルート上には複数の暗殺者が潜んでいたものの、この事件によって車列がスピードを上げたこともあり、いずれも市庁舎入りまでに行動に移せた者はいなかった。
大公夫妻の到着後、市庁舎では歓迎式が催されたが、先の出来事はフェルディナンド大公の心証を著しく害するものであり、「市長殿、私はここに来るや否や爆弾で出迎えられたぞ。一体どうなっているんだ」と、一時は市長によるスピーチを遮る程に動揺と不満の色を隠せずにいたという。
それでも歓迎式はつつがなく終了し、大公夫妻は当初の計画を変更して、先の爆弾テロによる負傷者を見舞うべくサラエボ病院を訪問することを決定し、その車列は10:45に市庁舎を出た。その際、関係者の間では警護のために兵士らの到着を待ってからの出発も検討されたが、総督らの反発により警護は引き続きサラエボ警察に任されることとなった。それでも総督は、市庁舎から元来た道を引き返す当初のルートを変更し、まっすぐ病院まで向かうよう指示を出しているが、この指示は補佐官の不在により各車両の運転手へと伝わることなく、車列は暗殺者の待つ通りへと引き返していったのであった。
一方、暗殺者の一人であったプリンツィプは、ルート上のラテン橋そばのカフェにて、再度車列の差し掛かるのを待ち構えていた。11:30、車列はそのラテン橋に差し掛かり、その際ルート変更の伝達が不十分であったことから最初の2台が脇道へと入ったため、大公夫妻の乗る3台目もそれに続こうとしたところ、同乗していた総督から一時停止の指示が出された。
が、奇しくもその停止位置にはプリンツィプが立っており、プリンツィプは停車の直後すかさず車両の踏み板に登り、大公夫妻に向けて至近距離より2度の発砲に及んだ。初弾はフェルディナンド大公の頸動脈を傷つけ、2発目はゾフィーの腹部に命中。その後プリンツィプは自決を図ろうとしたものの群衆に取り押さえられ、大公夫妻は急ぎ総督公邸へと運ばれたが、ゾフィーは被弾の直後に既に意識を失っており、公邸への到着時点で死亡が確認された。フェルディナンド大公もまた移送中に意識不明に陥ったまま、妻の後を追うように到着から10分後に薨御した。
事件後
前述の通りプリンツィプは現行犯逮捕されたが、その他の暗殺者たちも程なくして軒並み逮捕されており、プリンツィプやチャブリノヴィッチ、それにリーダー格であるダニロ・イリッチも含めた暗殺者6人とその協力者たちは、サラエボでの裁判の末にその多くが懲役10年~20年、計画の首謀者と目された者に至っては絞首刑の判決が下された。
このうち、大公夫妻の殺害を実行したプリンツィプは、犯行当時未成年であったことから死刑を免れ懲役20年の刑が宣告されたが、テレージエンシュタット要塞刑務所(現・チェコ共和国)での劣悪な環境は持病の結核を悪化させる格好となり、第一次大戦の終結も間近な1918年4月に、刑期満了を待たずして獄中にて短い生涯を閉じている。
また、チャブリノヴィッチらは裁判に際し、「あくまでもこの事件の責任は自分たちにのみあり、セルビア当局は潔白である」と一貫して主張していたが、結果的にそうした主張の一切は退けられ、「実行役であった黒手組のみならずセルビアの軍諜報部などが共同でこのような凶行に及んだ」ものとして結論付けられた。
一方で、事件直後のサラエボ市内や帝国内の他の地域において、事件に端を発した反セルビア暴動も相次いで発生し、セルビア系住民への虐殺も横行。こうした動きを当局は抑制するどころか、むしろ扇動するような有様であり、サラエボ市内におけるセルビア人に関連した住宅や店舗、それに各種施設の破壊は実に約1,000件にも及んだという。
また、オーストリア=ハンガリー帝国の後継者夫妻の暗殺という凶事は、ヨーロッパ諸国にも深刻な波紋を投げかけ、帝国への同情を寄せる結果にも繋がった。オーストリア=ハンガリー政府はこの事態を受けてセルビア政府に対し、7月23日付で最後通牒を突き付けている。実に10か条にも及ぶ要求に対し、セルビア側もその大半について呑む姿勢を示したものの、事件調査へのオーストリア=ハンガリー代表者の参加については主権侵害であるとして留保したため、オーストリア=ハンガリー政府はこの回答を不十分であるとして駐セルビア公使を引き上げさせ、ここに両国間の外交関係は断絶を迎えた。
そして7月28日付けでオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に対し宣戦を布告。これを受けてロシアがセルビアへの支援に動き、さらにそのロシアの動向に対してオーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったドイツがロシアへと宣戦を布告したことにより、世に言う「第一次世界大戦」が勃発することとなるのである。