概要
「戦譚シャクシャイン」とは1669年の“シャクシャインの戦い”を題材にした歴史パロディである。
「細かいことは気にしない」「もっと笑いを」「もっと認知度を」という考えのもと、赤崎いくやが始めたもの。
歴史的事実については一応の下調べはあるものの創作も含まれるため、注意が必要。
以下の解説にもネタが含まれるので、注意が必要。
物語
現北海道日高地方にハエクルという集団とメナシクルという集団がいて、猟場争いをして、ハエクルが負けて、ハエクルは松前藩と仲が良かったから松前藩に助けを求めに行ったけれど断られてしまって、しかも松前まで行ったひとが帰路の途中で病死してしまって、さらにそれが松前藩による毒殺だなんて噂が流れて、これをきっかけに、度重なる天災や長年の不景気と松前藩の悪対応に抗うべく日高アイヌが対松前を唱えて蜂起、最初は優勢だった日高アイヌだったけど、江戸幕府の援助を得た松前藩に負けてしまいました。
……しかし、実際はそんな単純な話じゃなかったよ。
ざっくり年表
シブチャリ側での出来事 | 松前側での出来事 | |
---|---|---|
1648年 | メナシクルのシャクシャイン、ハエクルの一員を殺害 | 三代目藩主氏広没、その息子高広が継ぐ |
1653年 | ハエクル、メナシクルの長カモクタインを殺害。シャクシャインがメナシクルの長になる | 家臣をシブチャリへ派遣、和睦させる。松前分家の小姓組・松前泰広、江戸より帰省 |
1655年 | シャクシャインとハエクルの長オニビシ、松前の城下福山にて和睦を誓う | |
1662年 | シャクシャインとオニビシ再び争う | |
1663年 | 有珠山噴火 | |
1665年 | シャクシャインとオニビシ、松前の介入により和睦 | 家臣をシブチャリへ派遣。四代目藩主高広没、その息子矩広が継ぐ |
1667年 | 樽前山噴火、シブチャリにも降灰。シャクシャインとオニビシ、また争う。文四郎の介入により一時停戦 | 蠣崎広林を使者に幕府より米三千石拝領 |
1668年 | オニビシ討死。ハエクル、メナシクルと争うも衰退。 | ハエクルの使者ハロウからの救援願いを拒否、食料のみ持たす |
1669年4月 | ハエクルの使者ウタフが松前へ行くも拒否され、帰路で病死、毒殺の噂が流れる | 使者の願いは拒否するも、食料を持たす。商船の約束をする |
1669年6月 | 蜂起決行、国縫へ進軍 | 蜂起の知らせを受け、国縫へ向けて先発隊派遣。国縫関所の防御強化 |
1669年8月 | 国縫戦進退つかず、シブチャリへ撤退 | 幕府の命により江戸より松前泰広、国縫着 |
1669年9月 | 松前軍幕府援軍の再編、シブチャリへ出陣 | |
1669年10月 | 松前からの和睦に応じるが奇襲される。シャクシャインほか首謀者討ち取られ、シブチャリのチャシ(砦)も陥落、越後庄太夫ほか和人3名処刑される | |
1670年 | 浦河勢抵抗を続ける | 松前泰広、江戸へ戻り、報告 |
1671年 | 蠣崎主殿、余市出兵。蠣崎広林、白老出兵。残党の鎮圧にあたる。 | |
1672年 | 長万部・国縫で再び蜂起の知らせあり、松前泰広赴く。浦河勢と和睦 |
※第一話では1648年から1668年までのシブチャリ視点による物語となる。
主な登場人物
シブチャリーズ
シブチャリ(渋舎利、染退、シベチャリとも)とは現北海道新ひだか町にある河川名であり、シブチャリーズとはその付近に住んでいた集団の作者赤崎による勝手な呼称。あるいは蜂起に際し松前藩に抵抗した集団の呼称。
シブチャリーズにはメナシクル、ハエクル、金堀の各集団がいる。
メナシクル
シャクシャインを長とする集団。
シブチャリ川の下流に拠点を置き、その勢力は日高山脈より以東の釧路にも及んだという。松前藩の監視が行き届かなくてちょと困ってた。なんとなく懐古主義。
- シャクシャイン(シャグセン)
メナシクルの長。蜂起時64歳前後、英傑というより豪傑。
和睦のだまし討ちで死亡、首は塩漬けにされて松前まで持っていかれたらしい。
- カンリリカ(カン君)
シャクシャインの三男。無駄にイケメン高身長。和睦のだまし討ちで死亡。
- チメンバ
道南方面に兄弟を持つ。兄弟を訪ねて蜂起を促す役目を担った。最期は松前軍の武将に討たれる。
- ウェンシルシ
道東方面に土地鑑があり蜂起を促した男。最期は松前軍に生け捕られ、松前で病死。
- ツノウシ
浦河の長。シャクシャインとは親しいらしい。
ハエクル
オニビシを長とする集団。
シブチャリ川の上流に拠点を置き、その勢力はシブチャリ川の西、沙流~千歳に及んだという。ハエクルが属するシュムクルはちょと松前藩寄り。なんとなく和風文化推進派。
- オニビシ(ぴち)
ハエクルの長。シャクシャインの宿敵。40歳でメナシクルの奇襲に遭って討死。
→オニビシ
- カケキヨ
オニビシの息子。蜂起時15歳。対松前を最初に言い出したのは彼らしい。
- チクナシ
オニビシの甥、跡継ぎ。オニビシ弔合戦を起こす。蜂起に応じ、ともに戦うも和睦だまし討ちで死亡。
- ハロウ
ピポク(現新冠町あたり)の長。オニビシの従兄弟でハエクルの一員。蜂起にも松前にも応じなかった。
- ウタフ
サルンクル(現沙流川上流あたり)の長。オニビシの義兄。松前に救援を求めるも断られ、帰路で病死、それは毒殺と噂される。
- ハル
オニビシの甥、ウタフの毒殺を疑った人物。ウェンシルシと同盟を結び、ハエクルとメナシクル結託のきっかけを作る。シブチャリ籠城戦にて鉄砲で撃たれて死亡。
金堀
当時三万とも五万とも居たといわれる本州からの出稼ぎ者。
シブチャリには三つの金山があったらしい。
- 越後庄太夫(えちごしょうだゆう、だゆん)
シャクシャインの娘婿。シャクシャインに蜂起を促す、裏の総大将。最期は火刑。
- 文四郎(ぶんしろう)
金山の坑主。シャクシャインとオニビシの仲介に入るも結果として油を注ぐ形になる。
チーム松前
要は松前藩の面々。
松前宗家
藩主の家系。蜂起以前は幼君の擁立が相次ぎ、家臣団の権力争いが起こったと思われる。
- 松前兵庫矩広(まつまえひょうごのりひろ、のりりん)
五代目松前藩藩主。蜂起時9歳の幼君。成人後は暴君名君となるが、それはまた別の話。
- 松前八左衛門泰広(まつまえはちざえもんやすひろ、やっち)
15歳のときに江戸へ分家。幕臣小姓組。蜂起時42歳。藩主矩広の後見人。松前のトノ。
蜂起を知らされ幕府直々に鎮圧を任された、松前軍総大将。「渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書」の著者。
彼の行く先々でよく火事が起きる。戦後は出世街道。
蠣崎家
初代藩主松前慶広の兄弟から派生した家臣の一族。蔵人流主殿流などがあり、二十家以上あるらしい。
- 蠣崎蔵人広林(かきざきくろうどひろしげ、ひろりん)
松前藩家老。蜂起時35歳。藩主矩広の叔父にあたる。蠣崎のトノ。
彼の失政が蜂起を招いたとされるが、藩主と領民のために奔走している記録もあり、一概に言えない。蜂起後はいち早く出陣し長万部~国縫の防衛にあたる。
「りはつを面テニ見セ申候由。家中より少ハそしりも御座候由(超意訳:ドヤ顔むかつく)」と記録された男。
- 蠣崎主殿広隆(かきざきとのもりひろたか、もーさん)
松前藩執事。蜂起時26歳。蠣崎のニシパ。各藩からの援助対応にあたった。
蔵人広林亡きあとの戦後処理を担う。最期は江戸松前藩邸で変死。
- 蠣崎作左衛門次広(かきざきさくざえもんつぎひろ)
金山奉行。文四郎が松前へ行ったときに話した相手。
その他家臣
- 佐藤権左衛門季信(さとうごんざえもんすえのぶ、さとやん)
松前屈指の猛将。シャクシャインとオニビシの仲裁に入ったり、和睦だまし討ちを提案したりする。
出陣準備にぬかりない。いち記録によれば蜂起時74歳。
主な戦闘
各戦闘の名称は創作になります。各時期の名称は平山裕人氏の『アイヌ史を見つめて』を参考にしています。
シブチャリ紛争前期(1648年以前~1653年)
- 田原(たはら)戦
シャクシャイン対オニビシ。
カモクタイン討死後の大規模戦闘。ハエクルが圧倒し、シャクシャインは逃げようとするがツノウシに止められ、戦に応じることとなる。使いを送っては何度も停戦を呼びかけた松前藩であったが、これを聞きつけてついに軍事力を背景に仲裁へ入る。名称が思いつかなかったので、オニビシ拠点の農屋(のや)とシャクシャイン拠点の真歌(まうた)の間をとって勝手につけた。
シブチャリ紛争後期(1667年~1669年)
- 目名(めな)戦
シャクシャイン対オニビシ。
文四郎の館が建っていたメナチャシでの戦闘。ここでオニビシは50人ものメナシクル勢によって囲まれ、脅しをかけるメナシクルに対し金堀をかばい、一人で戦いを挑み、討死する。
- 入船(いりふね)戦
メナシクル対ハエクル。
オニビシの弔い合戦。ハエクルのうちオニビシの後継者にあたるチクナシとその母、ハロウらが商船の到着とメナシクルの油断を狙い、シャクシャインの新チャシに夜襲をかける。メナシクルに犠牲者が多く出る一方、ハロウも負傷。
- 第一回厚別(あつべつ)戦
チクナシ対ハラヤケ。
オニビシの姉が沙流より帰郷し、ハエクルの様子を見て厚別にチャシを新築、そこへ移住を促す。厚別の新チャシへハラヤケを大将にメナシクルが派遣されるが、チクナシの鉄砲により退却。
- 第二回厚別戦
オニビシ姉対ツノウシ。
ツノウシが大将となり男衆の不在を狙い、再び厚別の新チャシに攻め入る。チクナシとその母が応じるものの、抵抗しきれずハエクルを連れて逃亡。逃げ遅れたオニビシ姉が討ち取られる。この戦闘から諸道具や食料を奪われ、ハエクルが衰退する。
蜂起期(1669年)
- 苫小牧(とまこまい)戦
商船対現地蜂起軍。
初の襲撃事件。数名の船員が辛うじて生き残り、松前藩に蜂起の知らせが入る。これより各地で商船の襲撃が続く。
- 長万部(おしゃまんべ)戦
シブチャリ軍対松前軍。
記録上、シブチャリ軍と松前軍の最大の戦闘。シブチャリ軍300人前後、松前軍500人前後。
悪天候もあり、シブチャリ軍の戦略と松前軍の武力から互いに進退つかず。この戦闘で松前軍は拠点の焼き討ち、首長格の人物を捕らえるなどするものの、シブチャリ軍の実態を把握しきれず国縫へ退却。
- 幻の国縫(くんぬい)戦
記録の上では大規模な戦闘はない。現地松前軍と幕府からの援軍が合流、松前泰広を総大将として軍を再編、シブチャリ方面へ向けて出陣する。シブチャリ軍は兵糧の不足から退却。
戦譚シャクシャイン中最大の戦闘。妄想の賜。
- 新冠(にいかっぷ)戦
シャクシャイン対佐藤権左衛門季信。
和睦を祝う酒宴の奇襲戦。酒宴会場となった小屋は焼き討ち、脱出したシブチャリ軍の主要人物も殺害される。シャクシャイン、カンリリカ、チクナシはこの戦闘で死亡。
- シブチャリ籠城戦
シブチャリ残党対松前軍。
新冠戦の翌日、松前軍は松前泰広の軍と蠣崎広林の軍の二手に分かれ、松前泰広軍はシブチャリ川の上流より攻め、蠣崎広林軍はシブチャリ川の下流、海沿いより攻め、火を放ってシブチャリのチャシを焼き払い、越後庄太夫ほか和人三人を捕らえ、処刑。
抵抗期(1669年~1672年)
- 白老(しらおい)戦
シブチャリ残党対蠣崎蔵人広林。
残党鎮圧戦。
- 二度目の国縫戦
シブチャリ残党対松前八左衛門泰広。
シャクシャインを失ってもなお抵抗していた浦河勢ほか残党と、松前泰広父子軍の戦闘。シャクシャインの戦い、最後の戦闘。
シブチャリと松前藩の関係
松前藩は豊臣政権のときにアイヌとの交易を独占できるようになり、蝦夷地への本州人の流入を制限し、道内各地のアイヌへは年に一回商船をつかわした。商船の主となる他藩や商人から税を徴収し、アイヌから得られる交易品の販売利益から藩の財政をまかなっていたという。アイヌからは乙名(おとな)と呼ばれる各集団の代表が商船の取引に応じた。
シブチャリは資源豊かであり金山もあったことから、シャクシャインの時代より以前からアイヌも和人も多く入り、一種の都会となっていたようである。
松前藩もシブチャリの経済資源には一目置いており、集団間の争いがあるたびに仲裁へ入ったのはそのためであるという。
シャクシャインの戦いについて
アイヌ対和人の戦いと思われがちであるが、これはイメージの一人歩きが市民権を得てしまったものであり、実際とは異なる。松前藩には味方蝦夷という存在もいたし、シブチャリ側には和人が協力していたところもある。経済悪政ばかりが原因ではなく天災、アイヌ同士の争い、藩家臣団の権力抗争、本州の動向、色んな要素がからんでいる。語りだしたら止まらないので割愛。シブチャリーズとチーム松前、それぞれにドラマがある。
外部リンク
本編
参考資料
『アイヌ史/概説』 河野本道 北海道出版企画センター 1996年1月
『アイヌ史を見つめて』 平山裕人 北海道出版企画センター 1996年1月
『増補改訂 アイヌ伝承と砦(チャシ)』 宇田川洋 北海道出版企画センター 2005年12月
『アイヌの歴史と文化I』 榎森進・編 創童舎 2003年8月
『アイヌ民族の歴史』 榎森進 草風館 2008年7月
『蝦夷日誌(上)』 松浦武四郎 吉田常吉・編 時事通信社 1962年1月
『黄金郷への旅−北の砂金物語−』 矢野牧夫 北海道新聞社 1988年5月
『増補改訂 静内町史 上下巻』 1996年8月
『日本の金』 彌永芳子 東海大学出版会 2008年8月
『北方史史料集成 第四巻』 海保嶺夫 北海道出版企画センター 1998年6月
『松前町史 史料編 第一巻』 1974年12月
『松前町史 通説編 第一巻 上』 1984年8月