1625年・1627年・1628年生~1680年11月15日(延宝8年9月24日)没
※生年が三説あるのは記録により、ばらつきがあるため。
シャクシャインの戦い後半、江戸より派遣され、現地松前軍と合流し、蜂起の鎮圧にあたった松前軍総大将。当時の藩主矩広の後見人。
二代藩主、松前志摩守公広の三男。母は藤子(守広系蠣崎家出身)。
三代藩主となる氏広とは異母兄弟。弟に広ただ(言に甚)、幸広。
妻は北条正房(安房)の娘、後妻に牧野儀成の娘。
息子に嘉広、兼広、当広。ちなみに嘉広は後に南町奉行を勤め、元禄赤穂事件に遭遇している。
当時の家老、蠣崎蔵人広林の義兄にあたる。
年表
1641年、江戸へ分家。同年父公広が没、兄の氏広が三代藩主となる。
1642年、氏広の名代として江戸にて将軍、家光に拝謁。
1647年、千俵賜り幕臣となる。
1648年、氏広が江戸松前藩邸にて病死、高広が四代藩主となる。同年、小姓組となる。
1649年、藩主高広が幼年につき、幕府より後見役を命ぜられる。
1653年、母の病を理由に帰郷。同年、シブチャリでメナシクルとハエクルの戦闘が激化、メナシクルの長カモクタインが討ち取られる。松前より佐藤権左衛門らが武力を背景に介入し、和睦させる。
1655年、藩主高広の前に、メナシクルの乙名シャクシャインとハエクルの乙名オニビシが和睦を誓う(福山会盟)。
1665年、高広、没。矩広が五代藩主となる。藩主幼年につき、後見役となる。
1669年、シブチャリ蝦夷蜂起。江戸より派遣され、これを鎮圧。
1670年、帰府し幕府に報告、金二枚を賜る。
1672年、松前目付となる。同年、抵抗を続けていた蝦夷に対し江戸より息子三人を連れ、仕置き。
1675年、使番となる。日光目付となり、日光へ赴く。
1678年、肥前唐津城の城地引渡役となる。同年、弟の広ただと幸広が口論となり、斬り合いに発展、広ただが死亡。のちに幸広も自殺。その数日後、泰広は職を辞して小普請となる。
1680年、死去。法名、常雄。