1634年生~1672年2月8日(寛文12年正月10日)没
初代松前藩藩主・松前慶広の弟、正広から派生した正広系蠣崎家(蔵人流蠣崎家)の当主。
シャクシャインの戦いが起きた1669年時の松前藩家老。
正確な就任年は不明。藩主矩広が御目見のため江戸へ行った際に同行しており、その記録から1665年以前とされる。
藩主松前矩広のおじにあたり、藩主が幼君であったことからも当時の藩政権は彼が握っていた。
実弟に次郎左衛門広政、妻に二代目藩主公広の娘である公。子はなし、実弟広政の子を養子にもらう。
蜂起の際、蝦夷鎮圧のため江戸より派遣された、小姓組松前八左衛門泰広の義弟。
政策
商場知行制(商場交易)の発足
蝦夷地の各地に商場(あきないば)を作り、そこへ商船を遣わすことでアイヌと交易し、藩の財政の要としていた。各商場は藩主をはじめ重臣がそれぞれで受け持ち、それぞれで交易品の内容を決めていたようである。
しかし広林が発足させたものか、彼の父が蔵人を名乗っていた時代に行われたものか、正確なことはわかっていない。
彼は自分の商場の近くに藩主矩広の商場があったにもかかわらず、自分の商い場へ商人を遣わせ現地のアイヌに酒をふるまって囲い込みを行い、自分の交易を有利に進め、藩主よりも利益を得ていた記録がある。
外部とのつながり
近江商人とつながりが深かったらしく、蜂起があった際に近江商人のほうより心配の書状をもらい、その返答の書状が残されている。
また津軽藩ともつながりを持っていたと推測されている。
蜂起への対応
蜂起の知らせを受けて先発隊を国縫関所へ派遣、幕府へ援助を求める書状を出し、のちに自身の部隊も発足、長万部~国縫の防衛にあたる。
長万部戦を経て一度国縫へ退くも、江戸からの援軍到着により反撃に出る。
ピポク(現新冠町)での和睦を装った奇襲では主戦力となり、翌日のシブチャリ籠城戦では松前泰広の部隊と二手に分かれ、海沿いから攻撃を仕掛けた。
シブチャリ籠城戦のあと、幕府への報告のため松前泰広とともに江戸へ上ったらしい記録がある。
1671年には白老へ出兵し、残党の鎮圧にあたる。
家臣団の権力争い
松前藩は矩広が五代藩主になるより以前、二代藩主の公広の頃より幼君の擁立が相次ぎ、それに伴って家臣団の権力争いがあったと言われ、実質、家老職に就いた者が政権を握っていたと思われる。その家老職は広林の正広系蠣崎家(蔵人流蠣崎家)と守広系蠣崎家(主殿流蠣崎家)で独占していた。
このふたつの蠣崎家は藩主や重臣に娘を嫁がせ、婚姻関係でもって藩主を囲い込み、二代藩主公広の時代までは正広系蠣崎家(蔵人流蠣崎家)が優位であったが、三代藩主氏広から四代藩主高広の時代では守広系蠣崎家(主殿流蠣崎家)が優位となり、五代藩主矩広の時代に入ると立場の逆転が起きることとなる。
白老へ出兵していた広林であったが翌年に病死してしまう。これは家臣の暗殺とも蝦夷による報復とも噂され、その翌年には後を継いだ弟の次郎左衛門広政も病死(自殺ともいう説もあり)、さらにその翌年には広林とともに家老として活動した蠣崎主殿広隆が江戸松前藩邸で変死する。
これはふたつの蠣崎家の権力争いから、シャクシャインの戦いを機に後に起きる家老の変死事件(いわゆる門昌庵事件)とあわせて、政権の蠣崎家独占状態の崩壊をもくろみ、藩主主導の政権へと移す他家臣の動きがあったと解釈されている。