ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

リンドン・ジョンソンの編集履歴

2023-06-10 19:46:32 バージョン

リンドン・ジョンソン

りんどんじょんそん

アメリカ合衆国の政治家。第36代アメリカ合衆国大統領

概要

リンドン・ベインズ・ジョンソン(英語:Lyndon Baines Johnson、1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。第36代アメリカ合衆国大統領。自身の政権では公民権・医療・福祉・教育に大幅な変化をもたらす多くの重要な法律を成立させたが、一方で外交ではベトナム戦争でのアメリカの関与をエスカレートさせた事で強く批判されている。


経歴

1908年8月27日にテキサス州ストーンウォールにて、農家で地元の政治家一家に誕生する。高校教師や議会補佐官として勤務した後、1937年4月に連邦下院議員(テキサス州選出)に就任した。1949年1月に連邦上院議員(同州選出)に就任し、1961年1月までに上院の役職を務めてきた。1960年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党のジョン・F・ケネディから副大統領候補に選ばれた。1961年1月にケネディ政権で副大統領に就任し、1963年11月に大統領に昇格した。1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党のバリー・ゴールドウォーターを破って当選した。


1965年1月に大統領に就任し、公民権・公共放送・医療へのアクセス・教育と芸術への援助・都市と農村の開発・公共サービスの拡大を実行した。1964年5月にこれらの取り組みを説明する為に「偉大な社会」という用語を作り、更に非公式には「貧困との戦い」と呼ばれるキャンペーンの先頭に立ち、低所得のアメリカ人の為のより良い生活条件の創出を目指した。


1964年8月にトンキン湾事件が発生し、これを受けてアメリカをベトナム戦争に介入させ、1965年3月に北ベトナムに対して空爆を実行した。1968年1月にテト攻勢が展開されると、特にアメリカでは反戦運動が高まり、世論はアメリカがこの戦争に関与する事に反対した。ヨーロッパでは前任の政権が実施してきたように、西ヨーロッパの政治・経済協力と統合を促進し続けた。


1968年アメリカ合衆国大統領選挙では、ベトナム戦争が泥沼化して多数の死傷者を出した事から出馬しない事を表明し、代わりに自身の政権で副大統領を務めているヒューバート・ハンフリーが出馬した。しかし共和党のリチャード・ニクソンが当選し、1969年に1月に大統領を退任した。1973年1月22日に心臓発作によって64歳で死去し、葬儀は大統領として自身が頻繁に礼拝していたワシントンD.C.のナショナル・シティ・クリスチャン教会で執行された。


国際関係

ソビエト連邦

1967年6月にコスイギンと首脳会談を開催し、両国は協調の時代に入ったものの、その一方でベトナム戦争では対立して打開の糸口は掴めなかった。


日本

1967年10月に首脳会談で佐藤栄作に、日本からの沖縄の返還要求について道筋を付けている。


家族

1934年11月17日にクローディア・アルタ・テーラーと結婚し、1944年3月に長女のリンダ・バード、1947年7月には次女のルーシー・ベインズが誕生した。夫人とは秘書を務めていた時に出逢い、後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるファーストレディとなった。


余談

テキサス州ヒューストンにあるNASAの『リンドン・B・ジョンソン宇宙センター』(ジョンソン宇宙センター)とズムウォルト級ミサイル駆逐艦の3番艦『リンドン・B・ジョンソン』は、ジョンソンに因んで2019年4月に娘のルーシーとリンダによって名付けられた。ちなみにジョンソンは1940年6月に軍人として勤務し、1964年1月まで軍務に服していた。


ジョンソンという苗字の大統領はもう1人存在し、性別・人種・苗字・南部の出身・先代の大統領が暗殺される・副大統領からの昇格で大統領に就任・大統領を退任した年が69(下2桁)年で1期で退任など何かと共通点が多いが血縁関係は無い。一部の人々はこれをオカルトと結びつけ、リンカーンとケネディの暗殺に因縁や呪いのようなものが関わっている証拠の1つだと主張している。


関連タグ

アメリカ合衆国 アメリカ合衆国大統領 北爆

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました