161系
ひゃくろくじゅういちけい
概要
上越線の特急「とき」用として1962年に大阪の汽車製造本社および近畿車輛で計15両作られた。上越国境を越えられるようにした151系である。
1962年の信越本線長岡-新潟間の電化完成により、上越線経由の特急電車を運転する計画が立てられたが、全線直流区間であるとはいえ、平坦区間用の車両が20‰の勾配が続く上越国境の山岳区間を走れるか疑問が生まれた。
そこで1961年6月21日・22日に上越線の新前橋―長岡間で151系と157系を持ち込んで比較試験を行った。
初日、151系4M3Tの構成で試運転を行ったが、勾配が連続する区間でモーターが過熱してしまい、土合で試運転を打ち切った。2日目は食堂車サシ151-11を抜いた4M2Tで試験を行った。長岡までの試運転区間はクリアしたものの、20‰の勾配区間ではモーターの過熱を克服できず、結局導入は無理であると判断した。
この1週間前に同じ主電動機MT46形を使いながら歯数比が1:4.21である157系で実験を行った結果、想定されるMT比で問題なく運行できたため、一度は上越特急には157系を投入する方針を立てた。
だが、いざ実行するとなると、クーラー取り付け(もっとも、東海道本線の「ひびき」定期化の際に取り付けられはした)や上越線沿線の寒さに耐えられるような改造をしなければならない上、食堂車も用意しなければならない、と言う、面倒臭い問題が噴出した。そのうえ、新潟鉄道局(現在のJR東日本新潟支社)からは「こだま型電車を投入して下さい」という脅h・・・・・ゲフンゲフン、もとい、泣き落t・・・・・・・ゲフンゲフン、ではなく、お願いがあった(しかもかなりしつk・・・・・・ゲフンゲフン、もとい、熱心なものであった)ため、151系の車体に157系と同型の主制御器CS12C形(抑速ブレーキ使用のため)及び同じ歯数比の動力台車DT23C形を取り付けた車両を製作した。
山岳区間での運用のため、9両編成中2両の1等車も動力車として製作された(151系にも動力車の1等車は存在してはいたので、それを元にしたと考えても良い)。編成中付随車は両先頭車と食堂車の3両のみである。
また耐雪性の高い主抵抗器、スノープラウ、ドアレールヒーターなどの耐寒装備を強化した。
歯数比が急行型同様の1:4.21のため、動力機器の許容最高速度は130km/hに下がった。
ただし153系・157系も代走の東海道線特急として走ったことがある上、国鉄時代の在来線特急電車の最高速度は120km/hにとどまったので、これで問題を生じたことはない。
先頭の2等制御車クハ161形が151系へ共用可能であったため、1964年4月24日に東海道本線草薙-静岡(当時東静岡駅は未開業)間の踏切で下り「第1富士」がダンプトラックと衝突したの先頭だったクロ151-7の代替として、同年6月1日から30日の間はクハ161-3が151系に連結された。その際に161系側の代用先頭車として157系のMc+M'ユニット1組をつないだ。歯数比が1:4.21であるために行われたが、床の高さが異なるため、幌を取り付ける際には苦労したという。
161系として製造されたのは1編成9両と予備車6両の合わせて15両。中間車は2編成分用意されたが先頭車が3両しかなく、事実上編成を組めるのは1編成だけに留まる。
1965年に出力を20%増しとした強力なモーターMT54形に取り替えて歯数比も151系と同じ1:3.50に揃えた181系40番台となったため、この形式としては消滅してしまった。
製造途中だった先頭クハ161-4号以降はそのまま181系への仕様変更がなされ、出場時にはクハ181-44~で登場している。
181系になってからも主に「とき」に使用され続け、1982年11月の上越新幹線開業でその役目を終えた。
参考資料
- 「鉄道ピクトリアル」(電気車研究会)2005年10月号記事「161系・181系 車両の歩み(佐藤博)」、「新潟電化と161系・181系特急「とき」の活躍(瀬古龍雄)」
- 国鉄181系電車#161系 - Wikipedia