新羅
しらぎ
概要
古代の朝鮮半島にあった国家。朝鮮半島南東部から興り、半島の中南部を統一した。古代の朝鮮半島は多くの国や集団が割拠し、扶余諸語や韓系諸語と呼ばれる様々な言語が話されていたと考えられているが、新羅による半島統一は、後の朝鮮語・朝鮮民族につながる独自性を形成した。
歴史
新羅のルーツは「斯蘆国」と呼ばれ、朝鮮半島の南東部(現在の慶尚北道周辺)を支配していた辰韓と言われる小国の一つであった。
初期は3つの勢力による連合政権だったが、中央集権制を整え、やがて金氏世襲に収斂された。
高句麗に広開土王が登場すると、それに服属したが、百済と伽耶と結び、排除した。
6世紀になると、智証麻立干は国号を「新羅」と定め、殉葬を禁止して労働力を確保。王号も「麻立干」から中国風の「王」に変えた。
また、仏教の公認や律令の発布、国史の編纂も行われた。さらに上級貴族の師弟を「花郎」として編成し、育成した。これを背景として、6世紀に急激に台頭。高句麗の南部を併呑し、西隣の伽耶諸国を支配下に入れた。
7世紀になり、百済の攻撃を受けると、唐と結んで百済と高句麗を滅ぼした。
百済の一部王族が倭国と連合して663年に白村江の戦いを起こしたがこれを撃破。唐も駆逐し、朝鮮半島を制圧した(統一新羅の成立)。
律令制の整備が進められ、貴族の身分制度である、骨品制が敷かれた。交易や交流も盛んで、貴族たちは贅沢な暮らしを保証された。
使者派遣が断続的に行われるが、遣唐使より先に廃止される。
8世紀後半になると権力闘争が起きはじめ、王権は失墜。中央集権制から貴族連合政権に移行した。飢饉や王権による収奪により、農民は困窮し、反乱が相次ぐようになった。豪族の力も増し、政府はほとんど支配力を失った。
唐朝が崩壊しかかった10世紀初頭、百済と高句麗の復興を掲げた、後百済と後高句麗が反乱勢力により建国された(後三国時代)。後高句麗から興った高麗に降ったことによって滅亡した。