概要
ロシアの女帝。ピョートル1世と並び大帝(ヴェリーカヤ)と称される。数多くの愛人を抱えたことでも有名。
ドイツのアンハルト・ツェルプスト公の娘であり、ロシア人としての血は全くひいてない。出生時の名はゾフィー・アウグステ・フリーデリケ。ロシア正教に改宗した際にエカチェリーナ・アレクセーエヴナに改名。
ピョートル大帝の娘であるエリザヴェータ女帝の推薦で、女帝の姉の子(女帝の甥、ピョートル大帝の孫)であるピョートル3世に嫁した(女帝の若い頃に死別した婚約者がエカチェリーナの母方の伯父だった事が推薦の大きな理由だったとされる)。息子のパーヴェルをもうけるも、性格の合わない夫との仲は最悪であった(そのためパーヴェルも実は愛人のロシア人貴族との子ではないかという風聞まであるが、公的には夫ピョートル3世の子とされている。近年の遺伝解析ではパーヴェルの三男のニコライ1世の遺伝子調査の結果、ロシア人にほとんどいないY染色体の持ち主であることが確実視されおり、やはりピョートル3世の実子だった可能性は強まっている)
ピョートル3世の即位の半年後に近衛連隊のクーデタで夫を廃位・殺害して即位した。夫のピョートル3世もエカチェリーナ同様にドイツ生まれであったが、彼はロシアの慣習を嫌って、ドイツを懐かしむ人物で、即位すると亡き叔母のエリザヴェータ女帝によって勝利しかけていたドイツ・プロイセン王国との戦争(七年戦争)を早々に中断し、プロイセン優位の講和を結んでしまった。そのためピョートル3世は軍はじめ国内の猛反発を招き、これが政治的致命傷となった。一方でエカチュリーナはロシアの慣習に積極的に馴染もうとしたため、人望を得ていた(これだけではピョートル3世が何ら情状酌量の余地がないようだが、一応、彼にもそうなる背景はあった。両親を早くに亡くした彼は教育係のドイツ軍人ブリュンマーから「良きドイツ軍人」になる事を叩きこまれる虐待に近い教育を受けて育ったため、ロシア皇帝となっても、まさにそう振舞ってしまったのである。エカチェリーナと不仲となるほどの性格の不一致も、この歪んだ教育によって人格形成に問題があった事が大きい)。
啓蒙専制君主としての姿勢を取っていたが、大規模な国内反乱であるプガチョフの乱以降は反動化。反乱を鎮圧後、農奴制を極限にまで強化した。
ピョートル大帝に続き、ロシアの領土拡張に務め、オスマン帝国と2度に渡り戦い、クリミアを併合(露土戦争)。またポーランド分割にも加わり、更に領土を獲得。1792年にラスクマンを根室へ派遣し、江戸幕府へ外国を迫っている。
1796年脳卒中で死亡。後を継いだ息子のパーヴェル1世は母の所業を嫌っており、エカチェリーナ2世を全否定する政策を打ち出したが、これまた国内の反対派の反感を買い、数年後に暗殺されてしまった。
人物
- 多くの男性と関係を持っており、女帝を「娼婦」と揶揄する者もいた。しかし陸軍人のポチョムキンとは秘密結婚であったものの、彼とだけは生涯唯一の真実の夫と言うべき関係であった。
- 女性教育に力を注いだとされ、近年再評価の傾向がある。
- 日本人漂流者・大黒屋光太夫を日本へ送還した。
創作における主な登場作品