黒田長政
くろだながまさ
生涯
永禄11年(1568年)、黒田孝高の嫡男として生まれる。幼名・松寿丸。
当初は織田信長への人質として、家臣である羽柴秀吉に預けられて育った。
しかし、荒木村重が主君・信長に反旗を翻す事件が起こり、その村重説得に赴いた
父・孝高があろうことが、逆に捕縛されてしまった。
一向に帰る気配のない孝高に業を煮やした信長は、寝返った可能性ありとして
松寿丸への処刑の命が下る。しかし、竹中重治(半兵衛)の機転により一命を助けられている。
その後、父親に付き従い各地を転戦し、親子の功績が認められ豊前国中津に12万5,000石
の所領を与えられた。そして、天正17年(1589年)、父が隠居に伴い家督相続した。
秀吉の朝鮮出兵にも従軍し、ここにおいても数々の武功を挙げたが、
秀吉死後は、石田三成らとの対立関係から徳川家康に接近し、家康の養女を正室にするなど
家康に忠実に仕えるようになっていった。
家康の上杉景勝討伐に参加して、西で石田三成らが挙兵するとそのまま東軍側の武将として
関ヶ原の戦いで戦った。
ここでの長政の活躍は冴えわたり、武勇だけでなく小早川秀秋や吉川広家などの寝返りの
調略も行い成功した。
その働きが認められて、東軍一の功労者として筑前名島(福岡)に52万3千石を与えられた。
その後、大阪の陣などにも参加して、京都知恩寺で病のため死去。享年56歳。
人物・逸話
・当初は武勇に優れた武将であったが、関ヶ原の戦いにおいては父親譲りの調略を発揮したことなどで、高い知略も持ち合わせていたことが分かる。
・関ヶ原の戦いの後、東軍に属した長政と父・孝高とのある日のやり取りで
長政は「家康公は私の手を3度とり、喜んでくださいました」と言う。
如水は「それはどちらの手だ」と尋ねた。
その質問を妙と思いつつも「右手でございました」と答えた長政に、
如水は「その時お前の左手は何をしていたのだ」
つまりは「なぜ家康を刺し殺さなかったのか」と返したと言われている。
・また嫉妬深い一面もあったようで、黒田家随一の勇将で父からも厚遇を受けていた
後藤基次(又兵衛)を追放してしまい、さらに奉公構という再登用をほぼ無効にしてしまう措置も行った。
また同じく黒田家中の筆頭的存在である武将・母里友信が長政の子・黒田忠之に対して、
「父君以上の功名を挙げなさい」と言ったとされ、それを知った長政は
「父以上の功名とは何事だ」と激昂して、友信を殺そうとしたこともあった。
これらのことで長政の人物としての悪評を買い、武将として評価にも悪影響を
後世にわたって与えてしまった。
今日においては基次の件に関しては父親以上に厚遇していたにも関わらず、
禁止した細川家との付き合いを守らなかったことが原因とされている。