「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。
生涯
播磨国飾磨郡妻鹿の国人・曽我一信の子として生まれた。幼名は万助。
父・一信は播磨国の小寺氏に仕え、また黒田職隆の与力的な立場にあったとされる。その関係で職隆の子・黒田孝高(官兵衛)に出仕した。後に母親の実家の母里家が、戦で奮闘の末に一族が戦死してしまったため、母里家が断絶することを惜しんだ孝高の要望によって、養子入りして母里家を継ぎ、母里太兵衛に名前を改めた。
その後は、黒田家が関わる主だった合戦にて獅子奮迅の活躍をしていくことになる。またある時は荒木村重によって主君・孝高が捕らえられた際には、危険を承知で安否確認のために有岡城に潜入するなどの忠誠心の高さが窺えるエピソードも残っている。
慶長20年(1615年)に死去。享年60。
人物・逸話
- 槍術に優れた武将であり、生涯に挙げた首級は76と黒田家中で一番であった。そこから黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人として名を連ねる。
- 友信を語る上で欠かせない逸話として黒田節の逸話がある。これは黒田長政の使者として福島正則の元を訪れた際、正則に酒を勧められたのが発端である。最初のうちは固辞していたものの、あまりにしつこく勧められたばかりか、黒田家を貶める発言までされたので受けて立つ事となり、見事に飲み干した。この際に「勝てば好きな物を褒美に与える」と事前に言われていたのでここぞとばかりに名槍「日本号」を所望した。正則は自分が言った手前もあり渋々これを了承し、褒美として与えたのであった。博多駅前と福岡市西公園には、この逸話をモチーフにした大きな槍と大盃を持つ、友信の銅像がある。
創作上における母里友信
国盗り物語 - 1973年NHK大河ドラマ、演:高津住男
軍師官兵衛 - 2014年NHK大河ドラマ、演:速水もこみち
軍師黒田官兵衛伝
巨漢で豪快な武将。忠誠心は高いが感情の起伏が激しいため、官兵衛の悩みの種である。
素手で壁をへこませるほどの怪力と優れた槍術を有し武力は最強の「10」だが、大のアル中であり、酒が切れると途端に弱体化する。
関連タグ
博多人形…「黒田節」の一件が人形のモデルになっている。