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護良親王(逃げ上手の若君)の編集履歴

2024-07-28 17:01:34 バージョン

護良親王(逃げ上手の若君)

もりよししんのう

護良親王とは、『逃げ上手の若君』の登場人物である。

データ

武力83蛮性89
知力84忠義71
政治65混沌82
統率90革新70
魅力92逃隠88

技能:太刀打(甲)太刀適性70%上昇
技能:暴れん坊殿下西国武士・僧兵・ならず者属性の武将忠誠度20%上昇
技能:冒険譚の主潜伏・流浪・不屈の複合技能
技能:危険な覇気魅力10%上昇、権力者からの警戒度50%上昇
マーキング・パターン菊の御紋

活躍

後醍醐天皇の皇子。

切れ長の目が涼やかな凛とした面立ちの美青年。父・後醍醐天皇の代理として幕府打倒の指揮を執る軍略家にして武芸の達人。多種多様な出自の者たちを纏めるカリスマと統率力を誇り、後醍醐天皇に一時は跡継ぎにと考えられていたほどだった。

比叡山延暦寺天台座主の職にありながら鎌倉幕府打倒の綸旨を各国の武将に送り、幕府打倒の功をあげる。

その功により征夷大将軍に任じられる。武門最大の実力者・足利尊氏を危険視し、尊氏を自邸に招いて殺害しようとする。


手勢を率いて尊氏一行を襲撃し、自ら尊氏の供回りたちを駆逐する大立ち回りを演じ、その奮戦ぶりに高兄弟が出ようとしたほどだった。しかし、尊氏が自ら相手をすると全く歯が立たず、片手で攻撃をいなされながら手勢を皆殺しにされてしまう(そもそも尊氏には護良親王を殺す気すらなかった)。

騒ぎを聞いて加えて駆けつけた都の者たちが自分や周辺の死体には見向きもせず尊氏に従い、自身は彼らを伴って堂々と御所に入っていく尊氏をただ見送るしかできないという強烈な屈辱と無力感を味わわされる結末に終わった。


最期

常々尊氏ら足利勢力を危険視していた護良親王であったが、足利勢力もまた親王のことを危険視しており、中先代の乱を前に謀反の罪を捏造される形で失脚し、鎌倉に幽閉されてしまう。

そんな中、時行ら北条勢力が鎌倉奪還の為に攻め寄せ、関東庇番衆を始めとする直義ら鎌倉に残った足利勢力を打ち破る事に成功する。

しかし、直義はこの劣勢の状態で護良親王を解放すると、後醍醐天皇に赦されて以前より強力な政敵となってしまうことを危惧して兄に手紙を送っていた。兄からの指示は「万事…よろしく頼んだぞ」のみであったが、その意を察した直義は、鎌倉を脱する際に護良親王に淵辺義博を始めとする刺客を派遣する。

刺客を毒舌著しく挑発し、その太刀を歯で受け止めるという猛々しい反抗を見せるも、元々自身の末路を予見していた親王は覚悟を決め、最後は潔く凶刃を受け入れた。父・後醍醐天皇と共に見た夢に思いを馳せつつ、いつか父を救う天佑を祈りながら逝った。


尊氏に武芸やカリスマで歯が立たなかったり、失脚後の獄中を見舞いにきた尊氏が見せた怪物の側面に恐怖を感じたりするなど、尊氏には圧倒されるシーンが多かったが、尊氏からも「太陽は二ついらない」と表現されるほど危険視されており、尊氏が帝を盾に二番目の改革者になることでスムーズに天下を取ろうとしていることを見抜き、最期には尊氏の中の怪物が尊氏自身を食い殺すであろうことを予言している。


なお、皇子、即ち皇族の暗殺は紛う事無き弑逆(※)に値する重罪であり、事前に知っていた上杉憲顕ですらいざ実行の段階になると動揺を隠せず、直義に至っては青ざめ冷や汗をかいており、命じる際にかなりの葛藤があったものと思われる。


※国王本人あるいは王族に対する傷害・殺人罪。日本の旧憲法では大逆とも呼ばれ、被告は一審判決で死刑となった。


関連タグ

逃げ上手の若君 後醍醐天皇(逃げ上手の若君) 足利尊氏(逃げ上手の若君)


鎌倉時代 南北朝時代 太平記 後醍醐天皇 護良親王 足利尊氏

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