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特設監視艇

とくせつかんしてい

特設艦船の一種。徴用された漁船で、太平洋上で哨戒の任務に従事したが多くが戦没した。

概要

特設監視艇とは、大日本帝国海軍が運用した特設艦船の種別の一つである。

各地の100トン前後の漁船徴用され、日本列島の沖合で洋上監視に従事した。

数ある特設艦船のなかでも、彼等ほど過酷な任務に従事し、語られる事が少ないものもないだろう。

任務は哨戒、つまり日本本土に接近する敵艦隊や敵機を発見し通報する事だったが、引き換えに夥しい犠牲を出した。

何故漁船を徴用するのか?

これには漁船と無線局の発達、そして海軍の事情が密接に関連してくる。

明治時代までの漁船はエンジンを搭載しておらず、船体も小型で操業区域も沿岸付近だった。しかし大正時代以降になると、漁船は大型化し当然の事ながらエンジンを積んでマリアナ諸島やニューギニア近海といった日本から遥か彼方で遠洋漁業を行うようになった。

しかし、それと同時に遭難事故も増え、中には良栄丸遭難事故のような悲劇もしばしば起きた。

昭和に入るとこういった遭難事故に対処する為に無線局の整備が始まり、漁船も無線機を搭載するようになり遠洋漁船と漁協からなる通信ネットワークが構築されつつあったのだ。

一方、海軍はこの情報網に目を付けた。

言うまでもなく日本は島国なので、敵が侵攻してくる際には海を渡ってくる。ということはなるべく沖合で早期に発見しなければならない。

しかし現在のようにGPSや人工衛星、全域をカバーできるレーダー網などない時代、最も確実な方法は目視での監視である。

だか、日本周辺を隈無く網羅するだけの船や人員などある訳が無い。

そこで、この漁船と無線局からなるネットワークをそっくりそのまま利用して早期警戒システムに組み込もう…と考えたわけである。

乗員

先述したように特設監視艇は元々は漁船であり、漁師であった彼等は徴用後もそのまま船に乗り続けた。

身分としては、軍属の地位が与えられた事もあったが、無論正規の軍人ではない。その数は数万に及ぶ。

海軍側からは武装の操作や艇の指揮の為に人員が派遣され兵曹長前後の階級の下士官が艇長を務めた。

運用

内地の特設監視艇は、第二十二戦隊(通称:黒潮部隊。以後はこの名称で統一)に所属し、日本列島の南〜東にかけて設定された哨戒線に配置され、洋上監視の任務に就いた。

範囲は北緯24度から53度の南北約3000キロ、東経147度から164度に至る東京から東に700キロから2400キロまでの海域と言う途方もない広さだった。

黒潮部隊では3つの監視艇隊を編成し、1隊が哨戒に当たっている間に2隊目は拠点が置かれていた釧路から哨戒線へ移動し、3隊目が艇の補修や乗員の休養を行うローテーションが取られた。

また、外地等の各地の根拠地隊にも特設監視艇が配備され、同様の任務に就いた。

武装と装備

徴用された特設監視艇にはまず通信機が装備された。

当時は東京等の都市部を中心に漁協や無線局も整備され、漁船にも無線機の搭載が進みつつあったがまだ非搭載の漁船も少なくなく、特設監視艇の任務を果たす為に通信機やそれを運用できるだけの出力を有する発電機などの電源機器も搭載された。

太平洋戦争開戦から中頃までは小銃が数丁ほどで固有の武装はないか、あったとしても7.7mm機銃が1挺ほどといったケースが殆どだった。

戦争後半からは武装が増強され、九六式二十五粍機銃数挺に爆雷4〜6発前後を装備し中には曲射砲を搭載した艇もあった。

また、多くの監視艇が撃沈されて数が不足するようになると哨戒範囲を補う為に電探レーダー)も設置されるようになった。

とはいえ機銃数挺の武装では敵の艦艇や潜水艦、航空機には如何ともし難く、多くの特設監視艇が敵発見の無電を打ちつつ、或いはそれすらも叶わずに誰にも看取られることもなく波間に消えていった。

犠牲の果てに

昭和十六年度の全国の登録漁船は839隻で、その内265隻が徴用され、哨戒任務に従事した。

先述した黒潮部隊のみでも昭和十七年二月の時点で76隻の特設監視艇が所属し、その後196隻が追加されたが昭和十九年に89隻、二十年には77隻を喪失した。

最終的な特設監視艇の損害は戦没艇数300隻、損耗率は73.7%であった。

特設駆潜艇や特設掃海艇など、同様に特設艦船として徴用された漁船全体の戦没数は650隻であり、徴用漁船全体の77%にも及ぶが、これらは現時点で判明している記録のみであって、正確な数字は現在でも不明である。

当然の事ながら、これらに乗船していた軍人、軍属を含む多くの乗組員がいた事を忘れてはならない。

任務柄、日本の遥か沖合で身を矢面に晒した彼等は乗船が沈められれば多くが二度と日本の土を踏む事はなかった。

ドーリットル空襲と第二十三日東丸

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