西園寺公望
さいおんじきんもち
(嘉永2年10月23 日~昭和15年11月24日)第12・14代内閣総理大臣。明治~昭和時代の公卿・政治家。元老。
生涯
公家の最上位の摂家に次ぐ清華家に属する、徳大寺家の次男として誕生。4歳の時に、同じ清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。
幕末には年少のため特に目立った働きはなかったが、朝廷の戊辰戦争への積極的な関与を主張し岩倉具視ら倒幕派公卿に注目された。維新後は新潟府知事などを歴任し公卿の中で初めて散髪・洋装で宮中に参内したという。大村益次郎の推薦によってフランスに留学。以降10年近くにわたってパリにとどまり、フランスの知識人や中江兆民らの日本人留学生と交わり、西欧風のリベラルな気質を身に付けた。
帰国後は中江兆民と組んで民権派の新聞に関わるが、明治天皇の内勅により身を引く。伊藤博文・松方正義のもとで外務大臣、文部大臣などを歴任。貴族院議員(貴族院侯爵議員、のちに貴族院公爵議員)を務め、貴族院副議長に就任した。
その後、伊藤博文の後継として立憲政友会の総裁に就任した。桂太郎の後任として内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。西園寺と桂とが交互に政権を担当したことから、この時代は「桂園時代」と称された。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。
最後まで反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立の2ヶ月後の昭和15年11月24日に死去した。
西園寺は教育では教養ある「市民」の育成を重視し、科学教育や英語教育、女子教育を重視。外交では欧米との協調と、軍縮を基調とした路線をとったが、このため軍人には怨まれることとなった。満州事変では張作霖爆殺事件の徹底調査を命じるなど軍部の勢力拡大に抵抗したが、彼が首相に推挙した近衛文麿は強硬派に流されてファシズムに傾倒し、日本は対英米戦争への道を突き進んでいく。