雍正帝
ようせいてい
清朝第5代の皇帝 治世13年と先帝より短かったが。清国全土に情報網を張り巡らせ内地に専念。 〈内務皇帝〉
廟号は世宗。在位1722~1735。康熙帝(玄燁)の四男。康煕三十七年(1698)に貝勒に封ぜられ、1709に雍親王となったその後熾烈な後継者争いに勝ち抜き1722に皇帝に即位軍機処をもうけて内閣に代わる国政の最高機関とした。土地税と人頭税を一本化して税収を安定化させた。雍正帝は非常に勤勉で大量の上奏文に自ら目を通し赤字を入れ返書する徹底した実務家でもあった。長年の帝位争いは、官僚や役人の不安を招き不満や流言が各地に蔓延したが、雍正帝はそのような不安を解消するために地方行政の把握にも努め、功のあった官吏には恩賞を下賜して賞賛を惜しまなかった。また非常に倹約家で宮廷の女官や宦官など使用人の数を数百人まで減らし、宮廷費用を抑え財政に余裕を持たせ減税をたびたび行った。歴史上もっとも勤勉だった皇帝と評価されている。なお雍正帝自身は一度も戦に赴いていない。政治改革により元朝」より広い清の「人事」を全て皇帝一人でで決めれるようにする、しかしその治世は苛烈で近臣や弟であっても処刑・処罰をおこなったという。対外的には青海・チベットを征服し、露とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定した。
その他
- 水銀を薬として飲んでいた。
- 性格は気難しく、人を信用しない上1人でやらないと気がすまなかったという。