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概要

ムスタファ・ケマルトルコ軍人政治家(1881年5月19日~1938年11月10日)。独裁者として国民国家・トルコ共和国を築く。

議会からアタテュルク(「父なるトルコ人」)の称号を贈られた。


来歴

1881年5月19日、オスマン帝国のセラーニク(現・テッサロニキ)で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディの子として誕生。ムスタファと命名される。


1893年、サロニカ幼年兵学校に入学する。数学教官ユスキュプリュ・ムスタファ・サブリ・ベイ大尉から「完全な」を意味する「ケマル」と呼ばれたが、トルコのナショナリスト詩人ナムク・ケマルの名が念頭にあったとも言われる。

1896年、モナスティル少年兵学校に入学する。

1899年、イスタンブール陸軍士官学校に入学する。

1902年、陸軍大学に入学する。


1905年、陸軍大学を参謀大尉として修了し、ダマスカスの第5軍に配属された。

憲政を導入した日本が日露戦争に勝利した事に刺激され、トルコでは憲政復活運動が勢いを取り戻した。ムスタファ・ケマルは憲政復活派に弾圧を加える皇帝アブデュルハミト2世に反感を持ち、リュトフィ・ミュフィトらと共に「祖国と自由」を結成。サロニカにもマケドニア支部を設立。

1907年、上級大尉となり、サロニカの第3軍司令部に転属。サロニカの「祖国と自由」が「統一と進歩協会」に吸収され、ムスタファ・ケマルも協会に加入する。

1908年7月3日、「統一と進歩協会」サロニカ本部のアフメト・ニヤーズィエンヴェル・パシャバルカン半島諸都市で武装蜂起。鎮圧部隊が次々と反乱部隊側に寝返るという事態にアブデュルハミト2世は反乱部隊の要求をのみ、憲政復活を認める。

1909年、「統一と進歩協会」政権に反感を持つ諸勢力がイスタンブールでクーデターを起こす(3月31日事件)。ムスタファ・ケマルは鎮圧部隊の参謀を務め、事件に関与したアブデュルハミト2世は退位し、メフメト5世が即位。


1911年9月27日、参謀本部付となる。9月29日、イタリアがオスマン帝国領リビアに侵攻し伊土戦争が勃発し、ムスタファ・ケマルはベンガジに向かう船上で少佐に昇進。トブルクでの破壊工作を指揮して功績を挙げる。

1912年2月24日、イタリア艦隊がベイルート港に突入してオスマン海軍を一方的に破り、ベイルートを艦砲射撃で徹底的に破壊。その後も各地を荒らし回った。オスマン帝国の弱さを見たブルガリアセルビアギリシャバルカン同盟を結成しオスマン軍を攻撃する(第一次バルカン戦争)。ムスタファ・ケマルはリビアから呼び戻され、ダーダネルス海峡地区のボラユル軍団の作戦課長となる。

10月18日、ローザンヌで講和会議が開かれ、オスマン帝国はイタリアにリビアを譲渡。

1913年1月26日、ボラユル近郊でブルガリア第4軍を攻撃するが、ゲオルギ・トドロフ将軍指揮の第7リラ歩兵師団に敗北(ボラユルの戦い)。

5月13日、ロンドン条約によりオスマン帝国はアドリアノープル(現・エディルネ)をブルガリア王国に割譲。

6月16日、自国の取り分に不満なブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃。バルカン同盟の内紛にルーマニア軍とオスマン帝国軍も介入した(第二次バルカン戦争)。

7月21日、ムスタファ・ケマルはボラユル軍団とともにアドリアノープルを奪還。

10月27日、ソフィア駐在武官に任命され、ブルガリアに赴任。


1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。

1915年1月20日、第19師団長に任命される。エジェアバドの後背地にて予備兵力とされた。

4月25日、ガリポリの戦いが始まる。ムスタファ・ケマルは、オーストラリアニュージーランド軍団の上陸地点に向かい、進撃を阻んだ。

8月6日、イギリス第9軍団がスヴラ湾に上陸。これを食い止めるため、軍事顧問オットー・リーマン・フォン・ザンデルスはムスタファ・ケマルをアナファルタラル集団司令官とした。

イギリス第9軍団とオーストラリア・ニュージーランド軍団の連携を阻んだムスタファ・ケマルはメディアにより「アナファルタラルの英雄」として報じられる。

1916年1月27日、エディルネの第16軍団司令部に着任。

3月19日、昇進しパシャとなった。

1917年7月5日、第7軍司令官に任命されたが、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと衝突して辞任。イスタンブールに戻る。

1917年12月15日、皇太子ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行。

1918年6月、病気療養のため、ウィーンへ行く。

7月3日、メフメト5世が死去。皇太子ワフデッティンがメフメト6世となる。

8月2日、イスタンブールに戻る。

9月19日、イギリスのエジプト遠征軍がパレスチナに進撃(メギッドの戦い)。対峙するユルドゥルム軍集団の12倍の戦力で、ムスタファ・ケマル率いる第7軍も壊滅的損害を受け、アナトリアへ後退した。

10月30日、連合国とのムドロス休戦協定が締結され、オスマン帝国の敗北が決まった。休戦協定のドイツ人・オーストリア人国外退去命令により、フォン・ザンデルスに替わってムスタファ・ケマルがユルドゥルム軍集団司令官に就任。

11月11日、第一次世界大戦が終結。


1919年5月15日、イギリスの支援を受けたギリシャがアナトリアを支配すべくイズミルに出兵し、希土戦争が勃発した。

5月19日、ムスタファ・ケマルは東部アナトリアに上陸。エルズルムスィヴァスで各地に分散していた帝国軍の司令官や政治家を招集、オスマン帝国領不分割を求める宣言をまとめる。同時に「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動を組織化する。

1920年3月16日、連合国軍がイスタンブールを占領すると、脱出したオスマン帝国議会議員たちは「アナトリア権利擁護委員会」のもとに合同し、アンカラ大国民議会を開き、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。

ムスタファ・ケマルは反対者を排除し、占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げた。また、政敵エンヴェルを支援していたソビエト連邦モスクワ条約を結んで同盟国となる。

8月10日、連合国とイスタンブール政府はセーヴル条約を調印。国民国家の樹立を目指すアンカラ政府はギリシャのイズミル占領に強く反発した。

1921年7月、ギリシャ軍がアンカラ西方50kmの地点まで迫り、ムスタファ・ケマル自ら軍を率いる事になった。トルコ軍はサカリヤ川沿いに塹壕線を築き、ギリシャ軍に対峙する。ゲリラがギリシャ軍の補給を寸断した。

9月12日、トルコ軍の攻勢にギリシャ軍は全面撤退しイズミルまで戻る。

1922年9月8日、トルコ軍がイズミルを占領。

10月、連合国はローザンヌにアンカラ政府とイスタンブール政府(オスマン帝国)を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機にトルコ国家をアンカラ政府に一元化することにした。

11月1日、大国民議会で「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改め、世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、アブデュルメジト2世を象徴的な「カリフ」に選出。

11月17日、メフメト6世はイギリスの軍艦でマルタへ亡命し、623年間続いたオスマン・トルコは滅亡した。

1923年7月、ローザンヌ条約が調印され、ギリシャとトルコの現国境が確定した。

10月29日、トルコ共和国建国を宣言し、自らトルコ共和国初代大統領に就任。


1924年、宗教学校やシャリーア法廷を閉鎖。

1925年、イスラム教神秘主義教団の道場を閉鎖。

1926年、大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕。自身が党首を務める共和人民党による一党独裁を確立した。

1928年、憲法からイスラム教を国教と定める条文を削除し、政教分離を断行。

1929年10月29日、アメリカで株価が暴落し世界恐慌が始まる。

1932年、ソ連から巨額の融資と経済顧問団の派遣を受ける。

1934年、創姓法が施行され、国民は姓を持つよう義務付けられた。この際、ムスタファ・ケマルは大国民議会から「父なるトルコ人」を意味するアタテュルク姓を贈られた。


1938年11月10日、ドルマバフチェ宮殿(イスタンブール)で肝硬変により死亡。享年57歳。

イスメト・イノニュが第二代トルコ共和国大統領となった。


政策

一人で明治維新をやったような男とも評されるアタテュルクであるが、業績の巨大さ故に、毀誉褒貶も激しい。特に、イスラム教を弾圧したことは、国民の98%がムスリムのトルコで大きく賛否両論を分けている。


就任後は欧化政策を進め、文字をアラビア文字からラテン文字に改め、国民すべてにを持つよう義務付けた。

並び称される明治維新においても漢字廃止論などの実現されなかった愚策があったが、アタテュルクの場合は実際にアラビア文字を廃止しラテン文字に切り替えてしまった(もっとも、アラビア文字はトルコ語にマッチしていない部分が多々あり、日本における漢字と単純に同一視はできない)。このため、現代トルコ文語は短期間で大きく変容しており、1920年頃の活字文献でさえ、翻訳がないと読めないという国民が多い。


男女平等、普通選挙の他、政教分離を推し進め、スルタンの追放に始まり、宗教指導者の世俗への干渉の禁止、公的な場での民族衣装の着用禁止など当時のイスラム社会としては行き過ぎとも思える施策も行われた。トルコは、元オスマン帝国というイスラム文化の中心地でありながら、現在の中東で最もイスラム文化が廃れた地となっている。


反発、そして

伝統的・保守的イスラム文化を愛する国民は、近代化を歓迎しつつも大きな不満を抱えてきた。そして、そういった不満に対し、叩き上げの将軍であるアタテュルクは、武力による鎮圧を選んだ。官民ともに、イスラム教を懐かしんだかどで投獄されたムスリムは数知れず。現在、トルコでは懐古主義と揶揄されるエルドアン大統領が地方のイスラム教徒に熱狂的支持を得ているが、その支持には、アタテュルクの宗教弾圧に対する反発が大きく影響している。

しかしながら、こういった強権的手法によって停滞が解除され、近代化が急進し、富国強兵に繋がったのも事実である。良くも悪くも不世出の巨人であったことは疑いがない。


名前の変遷

アタテュルクは生涯に渡り名前を何度か変えている。最初は他のトルコ人同様「アリの息子ムスタファ」と父の名を加えて名乗っていたが、幼年兵学校の教官が数学が得意なことを評価して「完全な」を意味する「ケマル」という渾名を与えて以降、「ムスタファ・ケマル」と名乗るようになった。


次いで戦争の英雄として讃えられるようになると、文武の高官の称号である「パシャ」を与えられると「ムスタファ・ケマル・パシャ」と呼ばれるようになる。トルコの著名な愛国歌「İzmir Marşı(イズミル行進曲)」はこの頃作られたもので、「Yaşa Mustafa Kemal Paşa yaşa(万歳、ムスタファ・ケマル将軍万歳)」という歌詞がある。


創姓法が施行され、大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」姓を贈られて「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」と名乗るようになった。

死亡時の彼の名を敢えて和訳すると「神に選ばれし、完全な父なるトルコ人」といった風になる。


人物

彼の人柄や私生活には謎が多い。トルコ政府が彼を国家の象徴にするために好ましいエピソードばかりを残したためである。

それらの検閲から漏れた逸話からは、大変な女好き、酒好きであったことが窺える。特に酒の逸話は有名で、ストレスや疲労を感じるとすぐに酒に逃げる悪癖により肝硬変を患い、医師に死の理由を「ラク(トルコの蒸留酒)のせいではない」と診断書に書かせようとして呆れられたという話が残っている。


白黒写真しか残っていないため想像しづらいが、彼はダークブロンドヘアーと明るい碧眼の持ち主だった。


自らのカリスマに依存した統治を行った独裁者ではあるが、独裁の限界も認識しており、没後は集団指導体制への移行を促した。


エルトゥールル号遭難事件において日本から義捐金を携えて渡ってきた山田寅次郎(後にトルコにおいて教師として活動もしていた実業家)の教え子の一人だったとされており、山田氏とも交流があったという。


現在トルコ国内には町の広場に銅像が建てられていたり、通りの名前になっている他、紙幣の肖像画や空港の名前(アタテュルク国際空港)や大学(アタテュルク大学)にもなっているほど国民から敬愛されている。小学校の道徳教育でも、彼を称える歌が愛国心の象徴として用いられるほど。因みに、公の場でアタテュルクを侮辱すると、罪に問われるので注意が必要である。

そのうちフェズ帽もOK?炎の最前線:戦場オスマン帝国海軍

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