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信長包囲網の編集履歴

2022-09-20 06:15:43 バージョン

信長包囲網

のぶながほういもう

戦国時代に結成された、反織田信長連合。

概要

戦国時代において勢力を広げた織田信長に対抗するために、各勢力が同盟を組んで信長に対抗した連合。

第一次信長包囲網

概要

信長は、朝廷や第15代室町将軍足利義昭を擁立して各地の大名上洛を促すが、朝倉義景はこれを拒否。

信長は朝倉領へ侵攻した。これにより浅井長政は信長との同盟を破棄し、義景を救援するために信長と金ヶ崎にて交戦して勝利した。その後、姉川の戦いにて浅井・朝倉連合軍は織田徳川連合軍と交戦するも、敗北。

長政と義景は比叡山延暦寺へと逃げ込み、朝廷や幕府の仲介のもと信長と一時講和した。


参加勢力

第二次信長包囲網

概要

信長との関係が悪化した足利義昭は、各地の大名へ信長追討令を出す。信長は比叡山を焼き討ちしたり、浅井家重臣・磯野員昌を調略して佐和山城を降すなどする。

だが、武田信玄三方ヶ原の戦いで信長の同盟者・徳川家康に対して圧勝し、徳川方を圧倒。さらに織田方の岩村城を攻略し、信長は窮地に陥る。

だが、信玄が病死したことにより武田軍が撤退したため、信長は浅井・朝倉を滅ぼし、三好義継を自害させ、反乱した松永久秀を降伏させて長島願証寺を焼き討ちして滅ぼす。

信長は義昭を京から追放し、彼はのちに毛利領へと亡命した。

信玄の後継者・武田勝頼高天神城明智城などを落として巻き返しを図るも、長篠の戦いで敗北した。

この後、信長は嫡男・信忠に家督を譲るが、実質的な権力はいまだに彼が握っていた。


参加勢力

第三次信長包囲網

概要

毛利領へ亡命した足利義昭は、既存の反信長勢力に加えて上杉謙信毛利輝元などを味方につける。

信長は、再び戦闘状態となった本願寺軍に対して攻勢を仕掛け、再び反乱した松永久秀を自害させる。

だが、謙信が七尾城を落とした後に手取川の戦いにて織田家重臣・柴田勝家に対して圧勝し、信長は再び窮地に陥る。しかし、謙信が病死して上杉家にて内乱・御館の乱が勃発。これに勝利して謙信の後継者となった上杉景勝は武田勝頼と同盟を結ぶも、北陸を織田軍によって奪われる。

輝元は上月城の戦いで勝利したものの、織田家重臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が宇喜多直家を降伏させ三木城の戦いにて勝利し、対毛利戦を有利に進める。さらに織田信忠が有岡城の戦いに勝利した。

後に信長は本願寺顕如や雑賀衆の一部を降伏させ、徳川家康や北条氏政・氏直と共に武田家を滅ぼした。


参加勢力

その後

信長はほとんどの大名を従わせ、対毛利戦や対上杉戦を有利に進めて長宗我部征伐軍を結成することで天下統一に近づいた。

だが、信長の重臣・明智光秀が謀反(本能寺の変)を起こし、信長は自害した。後に嫡男・信忠も二条御所で自害した。


後に織田家重臣・羽柴秀吉山崎の戦いにて光秀に対して勝利し、織田政権を掌握する。秀吉は氏を豊臣とし、信長と敵対していた毛利輝元や上杉景勝を従わせ、徳川家康も臣従させる。その後長宗我部元親島津義久を降伏させて北条家を滅ぼし、天下統一を達成した。

だが彼の死後、家康が関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を創設することで天下統一を果たした。

関連タグ

織田信長 徳川家康 豊臣秀吉

足利義昭 武田信玄 上杉謙信 本願寺顕如 浅井長政 朝倉義景 武田勝頼 上杉景勝 毛利輝元 松永久秀

甲越同盟 金ヶ崎の戦い 三方ヶ原の戦い 手取川の戦い 上月城の戦い

清洲同盟 姉川の戦い 一乗谷城の戦い 小谷城の戦い 長篠の戦い

明智光秀 本能寺の変

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