生涯
大永元年(1521年)~慶長3年(1598年)
近江南部の六角定頼の子として生まれ、天文21年(1552年)に六角家当主となった。足利義輝や細川晴元などを助けて三好長慶と戦い、和睦の仲介役にもなった。
浅井久政が六角領に侵攻するも撃退して、逆に従属させた。永禄2年(1559年)に嫡男の義治に家督を譲って隠居し、剃髪して「承禎」と号した。しかし翌年に浅井長政が侵攻を開始し戦うも敗退。美濃の斎藤義龍と同盟を結ぶも、膠着状態が続いた。
永禄4年(1561年)、晴元が長慶に幽閉されると上洛して三好勢を倒し、一時的に山城国を掌握した。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を要して上洛を目指すも、従属を求められた義賢は拒否して三好三人衆と組んで対抗したが、ことごとく敗北。家臣であった蒲生賢秀は信長に付いて、息子の鶴千代を(後の蒲生氏郷)を人質に送った。
元亀元年(1570年)には朝倉義景や長政、三好と反信長同盟を結ぶも敗走し、一時的に和睦を結んだ。その後も小規模で戦うも敗走を続け、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。
弓術に長けており、豊臣秀頼の弓術師範にもなった。
信長に抵抗を果敢に続けた武将の一人だが、人気では地味なタイプであるため低く、物語作品でも信長のやられ役がほとんど。名字のため、大概顔や身体の一部、甲冑のどこかが6角形にされている。
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