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藤原璋子の編集履歴

2014-07-24 10:02:16 バージョン

藤原璋子

ふじわらのたまこ

鳥羽天皇の中宮、崇徳・後白河両帝の生母。

平安時代後期の人物。女性。

第74代鳥羽天皇の中宮で、第75代崇徳・第77代後白河両帝の生母。待賢門院の院号を賜る。


正二位権大納言藤原公実の娘で、母は堀川・鳥羽両帝の乳母・光子。

父が早くに亡くなったため白河法皇が引き取り養育、の鳥羽天皇に入内させた。

養父白河法皇との関係が取りざたされ、第1皇子の顕仁親王(→崇徳天皇崇徳上皇)は鳥羽ではなく白河の子だとの風聞まで流れた。

このため、白河法皇が崩御し鳥羽上皇が院政を開くとその寵愛は側室藤原得子(美福門院)に遷っていったともいう。得子が生んだ近衛天皇が即位したのがその根拠である。璋子は1142年に出家、1145年に逝去した(享年数え45)。


璋子の死に際して、不仲であったはずの鳥羽上皇は隠棲先に駆けつけ、磬という仏具を打ち鳴らして大声で泣いたという(『台記』)。璋子の女房たちと交流があった西行法師も「尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行方を(いくら尋ねても、風の便りにすら聞けそうにない、花のように散ってしまった貴方の行方は)」と歌ってその死を惜しんだ。美しく人々に愛された女性であったとは言えそうだ。没後、転変を経て所生の第4皇子・雅仁親王後白河天皇として即位し、璋子の血統は現在の皇室まで続くこととなる。


なお、雅仁親王と同じく今様(当時の流行歌のこと)を好み、神崎のかねという歌手を重用していた。これを今様と聞いては黙っていられない雅仁親王が、母に請うて毎晩連れ出した。これには璋子もたまりかねて、「あんまりじゃないの。わたしだって聞きたいのよ」と一晩交代でかねの歌を聞けるようにしたとのこと(『梁塵秘抄口伝集』)。後白河帝の今様狂いは遺伝(もしくは教育の成果)だったのかw


関連タグ

璋子 待賢門院 平安時代

壇れい大河ドラマ平清盛」で演じる。

平清盛(大河ドラマ)

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