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インパール作戦の編集履歴

2014-10-13 01:56:04 バージョン

インパール作戦

いんぱーるさくせん

インパール作戦とは、太平洋戦争中の戦闘の1つで、大日本帝国陸軍とインド国民軍とで行われた、共同作戦である。補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

概要

1944年(昭和19年)3月〜7月まで行われた、インドのインパール攻略作戦である。この戦いは『インド独立戦争』とも呼ばれ、イギリス支配下のインドの独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略を撹乱する目的も含まれていたことから、大日本帝国陸軍とインド国民軍との共同作戦で行われた。


経緯

当時のインドは200余年もの間、イギリスの植民地支配にあり、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島・シンガポール・ビルマのイギリス軍を破竹の勢いで撃破し、歴史的な『マレー海戦』の完全勝利に、インド国民は歓喜していた。


インドの独立をずっと訴え続けていたスバス・チャンドラ・ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースやモハンシン大尉の強い要請から日本に受け入れられ、東條英機首相から無条件援助の確証を得て、1943年10月21日『自由インド仮政府』を樹立、日本政府が同年23日に正式に承認した。 同年24日に正式にアメリカ・イギリスへ宣戦布告を宣言し、日本と共に戦うこととなった。


日本側の司令官は牟田口廉也。連合国の中華民国への支援ルート(援蒋ルート)の遮断を戦略目的としてビルマから山脈を越えてインド北東部の都市インパールに攻め入るというものだった。しかし計画の立案時点から補給などに問題があるとして反対意見が出ていたが、反対する者が次々更迭されて実行される羽目になってしまった。


案の定ジャングルや山を越えていく進軍は困難を極め、牟田口が考案した『ジンギスカン作戦』(牛に荷物を運ばせあとで食糧にする)も牛が途中で逃げたり川に落ちるなどして大失敗。

補給が伸び切った状態で4月に入ると現地は雨期になり前線が飢えと雨と伝染病で過酷な状況となってしまい、前線の指揮官の1人第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将はあまりの惨状をみかね撤退を進言するも聞き入れられず、ついに5月末独断で撤退を決意。「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と司令部に返電し自身への処罰を覚悟で退却させた。

しかし牟田口は佐藤を更迭、同様に撤退を進言した第33師団長柳田元三陸軍中将・第15師団長山内正文陸軍中将を更迭。山内は現地でマラリアに罹患しており、牟田口らへの恨みを残しながら日本に帰れず死亡した。


7月3日、作戦中止が正式に決定した。


評価

戦後、作戦の失敗と日本軍敗北の責任は主に牟田口にあるとする評価が支配的である。一方、インパール作戦はむしろ大本営の望んだものであり、牟田口中将は上官に逆らう事を最も忌み嫌った軍人であったと言う事を記録で証明している。第十五軍の河邊方面軍司令官が、当初は作戦に積極的であったので牟田口中将を督励し、不利になって変心してもそれを明言せず、 牟田口中将の指揮に一任したのである。そのため、専門家の間ではインパール作戦の無謀は提案者の牟田口の責任を甚大とした上で、大本営と少なくとも五分と五分、または引きずられた大本営のほうが重いとみるのが一般的とされる。

また、ずさんな計画が実行された原因については、牟田口軍司令官や河邊方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは『人情』という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織や戦略上の合理性が削がれた点にあるとする意見もある。


そのあまりに杜撰な計画と無惨な失敗は現在にも通じる大きな教訓を残している。


関連タグ

牟田口廉也 インド

独立戦争 植民地解放

スバス・チャンドラ・ボース

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