概要
生まれは明応5年12月23日(1497年1月26日)で、在位は大永6年4月29日(1526年6月9日)から、崩御された弘治3年9月5日(1557年9月27日)である。
慈悲深い人物として知られ、応仁の乱の後に皇室の財政が逼迫し、食べるものも着るものも事欠き宮殿も荒れ放題の状況で、巷では疫病が流行ってしまっていた時、「自分はなんとひどい天皇だ」と大いに悩み、『般若心経』を金字(金泥で書いた文字)で写経し、全国の一宮二十五ヶ所に納められた。
食べるものにも事欠く状態で金字の般若心経を25巻も揃え、しかも天皇の写経なのでそれなりに装飾のされたものが使われたことから大変であったとされ、全国の一宮に勅使を立て行列を組んで届けさせ、そうして祈りを捧げるために、ありとあらゆる出費を切り詰め、25巻の般若心経を納められたという。
疾病終息を発願して自ら書いた般若心経の奥書には
「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉」
現代訳
「今年の天下大疫で万民が多く死亡した。朕は民の父母として徳が十分でなかったことに甚だ心が痛む。ひそかに般若心経を金字に写し、これを供養させる。これが疫病の妙薬となることを願う。」
との悲痛な自省の言を添えられている。
ちなみに、般若心経が納められたことは天皇の側近と一宮の関係者以外は知らず、これらは後世に発見されたものであり、天皇自ら食を減じ「自分にできることは祈りしかない」として写経をあそばされたとされる。
天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。
また、三条西実隆や吉田兼右らに古典を、清原宣賢からは漢籍を学ぶなど、学問の造詣も深く、御製の和歌も数多くあり『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集や、日記『天聴集』を残している。
さらに、なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』は、貴重な文学資料でもある。