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足利義詮の編集履歴

2015-10-01 10:56:50 バージョン

足利義詮

あしかがよしあきら

足利尊氏の次男。室町幕府・第2代征夷大将軍。

概要

生没年 元徳2年(1330年)~貞治6年/正平22年(1367年)

幼年期

 兄弟として、高氏の側室が生んだ竹若、後に叔父・足利直義の養子となり南朝方の武将となる異母兄・直冬、初代鎌倉公方となる同母弟・足利基氏らがいる。


 元徳2年(1330年)、鎌倉幕府に仕える河内源氏の名門・足利高氏の三男(直冬は父・尊氏に認知されなかったため次男とする歴史書もある)として生まれたが、母・赤橋登子は赤橋流・北条氏の赤橋守時の妹であり、高氏の正室であったため嫡男とされた。

 元弘3年(1333年)、北条高時に命じられ、父・高氏は幕府打倒の兵をあげた後醍醐天皇討伐の軍勢を率いて出陣、母とともに義詮は人質として鎌倉に留め置かれたが、京への道中で高氏は謀反の意を表すと、そのことが鎌倉に伝わる前に下野に脱出に成功した(異母兄・竹若は脱出に失敗し殺されている)。

 新田義貞が鎌倉攻めの兵をあげると二百騎をひきいてこれに呼応、義詮は4歳で初陣を果たし、鎌倉武士の旗印として大きな役割を果たすこととなった。


 その後鎌倉を本拠としており、建武2年(1335年)に起きた「中先代の乱」で北条時行率いる鎌倉幕府残党に一時追われるも、父・尊氏(鎌倉幕府追討の恩賞として後醍醐帝の諱「尊」を与えられ「尊氏」と改名している)が京より軍勢を率いて下向、残党軍を打ち破ると父とともに鎌倉にとどまった。

 建武4年(1337年)、北畠顕家が尊氏追討の兵をあげ、東北より攻め上ってくると義詮軍は武蔵で迎え撃ち、敗北を喫したが、情勢が足利方有利となったので鎌倉にとどまることとなった。(榎本秋『征夷大将軍総覧』)


観応の擾乱

 貞和5年/正平4年(1349年)、執事・高師直と叔父・直義の対立が鮮明になる対応に窮した尊氏は弟・直義を出家させ、義詮は失脚した叔父に代わって政務をとるために上洛する。

 観応元年・正平5年(1350年)、直義派の上杉憲顕・能顕父子が関東で挙兵、直義もこれに呼応して南朝に帰順して河内で挙兵、翌観応2年/正平6年(1351年)には高一族を殺害し、幕府の実権は尊 氏と和睦した直義が握った。

 観応2年/正平6年7月、「寺社本所擁護」をくり返した政策が失敗、離反する武将が相次ぎ直義は政務を引退、8月、尊氏・義詮父子は東西から直義を挟撃しようと京を出ると、直義は鎌倉へと脱出、直義追討を正当化するため、今度は尊氏が南朝に降り、文和元年・正平7年(1352年)1月、直義軍を破り和睦、直義とともに鎌倉に入り、2月になって直義は謎の死を遂げた(尊氏に殺されたとの噂が当時から流れ、誰もがそれが真実であると信じられた)。(『日本史広事典』)


南朝との戦い

 文和元年/正平7年、南朝との和議が敗れ、南朝の第97代天皇・後村上天皇が北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子・直仁親王を吉野へと刊行する事件が起こった。北朝の正当性を揺るがすこの事態に義詮・佐々木道誉らは仏の道を歩むことになっていた弥仁親王を擁立、親王は還俗して後光厳天皇に即位、義詮らは辛うじて今日の秩序を保つことに成功した。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)

 延文3年/正平13年(1358年)、尊氏が死去、義詮が29歳で2代将軍となるも、南朝との闘いは続いており、不穏な動きも各地で続いた。結局、義詮は4回にわたり南朝に京を奪われることになるのだが、そのたびに取り戻し、貞治2年・正平18年(1363年)には大内氏・山内氏を帰服させるなどし、幕府の強化を進めていった。

 貞治6年・正平22年(1367年)、死に際して幼少の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後事を託した。享年38歳。(榎本秋『歴代製板将軍総覧』、『日本史広事典』)


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 室町幕府 室町時代 足利尊氏 足利直義 高師直

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