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足利義尚の編集履歴

2015-11-09 08:04:42 バージョン

足利義尚

あしかがよしひさ

室町幕府・第9代征夷大将軍。

概要

生没年 寛正6年(1465年)11月23日~延徳元年(1189年)3月26日

 室町幕府・第8代将軍足利義政と義政の正室・日野富子の嫡男として生まれる。

 

義尚誕生前史

 寛正年間、8代将軍・足利義政は政務に倦み、花見や紅葉見物、酒宴などを頻繁に行い遊びふけるようになっていた。さらに義政は建築や造園に力を注いでおり、室町殿の復旧も行って邸内に新殿や泉を作った。母・日野重子のために新しい邸宅を造営し、設計から工事まですべて義政が中心となって進行した。その治世下にあって世間は水害や干害、地震などが頻発したことにより、大飢饉が慢性化していた。台風の氾濫によって流通手段が分断され、京の都であっても餓死者が続出し、その死体によって川の水がふさがるほどだったという。(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)


 寛正4年(1464年)、義政は浄土寺の僧になっていた弟・義尋を還俗させて「義視」を名乗らせ、自分の後継者とした。このとき義政は「必ず将軍職を譲る」と誓紙をしたため、渋る義尋を納得させている。

 寛正5年(1465年)春、後顧の憂いをなくした義政は大原野で盛大な花見を催した。衣服や調度などが前代未聞といわれるほどの華美さだったという。


足利義尚誕生

 しかし、同じ年の11月、正室・日野富子に男子が誕生する。当然ながら富子は我が子を次の将軍にしたいと思い、守護大名の中でも有数の実力者である山名持豊(山名宗全)を頼り、一方の義視も同じく幕府有数の実力者である細川勝元を頼り、畠山・斯波両氏の後継問題に加え将軍後嗣問題が絡み、幕府権力は二分化して対立することとなった。


応仁の乱

 応仁元年(1467年)1月、家督を争っていた畠山義就畠山政長の軍勢が京に集結、同年5月、全面戦争に発展し、地方に拡散した。乱にあたって当初は幕府方(東軍)についていた義視は兄・義政と不和となって山名方(西軍)につき、山名方(西軍)に迎えられていた義尚は幕府方(東軍)につき、両軍の旗頭は変更を余儀なくされることとなった。

 文明5年(1473年)、義尚は9歳で将軍に就任するが、その後も山名宗全と細川勝元が亡くなるまで乱は続き、文明9年(1477年)、両軍はようやく和睦し、11年にわたる内乱は終結した。


将軍就任後

 文明11年(1479年)、御判始、評定始、御前沙汰始を行うようになり、一条兼良に政道の教えを請い、政道指南書である『樵談治要』や『文明一統記』を兼良から授けられるが、父・義政に仕える奉行衆と義尚側についた奉行衆の対立が先鋭化する。

 文明17年(1485年)、父・義政との対立がさらに顕在化し、奉公衆と奉行衆の抗争事件に発展、このころから母・富子との関係も悪化し養育係だった伊勢貞親の息子・貞宗の屋敷に移り住むようになって、酒を飲んだり、趣味の世界に没頭するなどの悪癖を見せるようになる。しかしながら、文化的素養はあり歌人として『常徳院集』という歌集を残し、「後土御門天皇が義尚に絵画を提出するようご所望された」という記録が『御湯殿上日記』に残されている。


 長享元年(1487年)、近江守護の六角高頼が、近江国内の将軍家やその家臣の所領、寺社所領を横領したことが発覚したため、義尚は討伐に出陣、高頼の籠もる観音寺城に一斉に攻撃するも、六角勢のゲリラ攻撃に苦戦。長期化するうちに、義尚の健康は次第に悪化して翌年には重病を患い、延徳元年(1489年)、陣中に駆け付けた母・富子に看取られて息を引き取った。享年・25歳。

 

 この後、近江平定は第10代将軍・足利義材に引き継がれ、延徳3年(1491年)、一応の終結を迎えることとなった。(以上、榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)


関連タグ

室町時代 室町幕府 足利義政 日野富子

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