構成員
第四航空戦隊
航空戦隊の名を冠してはいるものの、瑞雲や彗星22型、紫雲などを積むことはなく、当作戦で積んだのはドラム缶やらの攻撃を受ければ危険な荷物であった。
戦隊司令官の松田千秋少将が艦隊の指揮を採った。
日向
完部隊及び四航戦の旗艦。
伊勢型姉妹の妹の方、砲塔が爆発した方、エンガノ岬の面舵の方。
当作戦では、伊勢を追いかけまわすのに夢中になっていた潜水艦を主砲で撃退した。
(流石にスラバヤ沖の足柄のように撃沈はしていないが)
日向が直接指揮する艦隊は1隻も損失を出したことがないという強運艦。
伊勢
伊勢型姉妹の姉の方、砲塔が爆発してない方、エンガノ岬の取舵の方。
当作戦では、魚雷に感づきなんと高角砲でそれを破壊する。
日本刀が「○○を切った刀」ということで「○○切」と名づけられることがあるが、彼女の携えた軍刀は雷切といったところであろうか。
ちなみに雷切という刀は存在する。
(しんけん!!においては雷切ちどりが実装されている。 刀剣乱舞では未実装)
日向の刀に関しても、この命名法則にのっとるとすれば、潜水艦のことから土竜○○、胴亀○○と名付けることができるだろうか。
大淀
足柄と第五戦隊を組んだり二水戦の旗艦だったりそうじゃなかったりの、司令部施設が自慢の丙型巡洋艦。
北号作戦では日向らとともに四航戦に編入されての作戦参加。
大淀には零式水上偵察機2機が搭載されており、それが「航空戦隊」であるはずの彼女らが持つ唯一の航空戦力だった。
北号作戦後は伊勢型姉妹とともに予備艦となり……→呉軍港空襲
第二水雷戦隊
礼号作戦で指揮を執った木村少将から、坊ノ岬沖海戦でも指揮を執る古村少将に司令官が交代していたが、古村少将の司令部は日本にあったため、北号作戦では木村少将がそのまま現場指揮を執って日本に帰還している。
参加艦艇は全員菊水作戦時点では第二一駆逐隊所属である。
霞
礼号作戦に引き続き第二水雷戦隊旗艦。
朝潮型最後の生き残り。
書類上の所属は第七駆逐隊で、二一駆への転属は三月頃となる。
途中で日向から燃料補給を受ける際に、勢い余って日向と衝突する事故を起こしたが、損傷は軽微だった。
朝霜
夕雲型最後の生き残り。
礼号作戦で清霜を失い、第二駆逐隊から二一駆へ転属する。
就役からまだ1年ほどしか経っておらず、目立った損傷も受けていないが、あまりにも酷使され続けていたため機関部を中心にかなりの疲労が溜まっており、帰還したら直ちに重整備が必要な状態だった。
後述の伊勢の小滝副長は当作戦後、二一駆司令として朝霜に乗り込んでいる。
(そのため、杉原艦長ならびに朝霜乗組員たちと運命を共にしている)
初霜
礼号作戦の艦隊を妙高の護衛のために外れていた。
初春型最後の生き残り、つまり元からの二一駆所属。
先述の伊勢の魚雷への射撃の跳弾の被害を受けそうになり、冷や冷やしたと艦長が語っている。
「戦艦の護衛なら任せてね」というセリフがあるが、撃沈された大和を除いて、伊勢日向のほかに、榛名の護衛任務を礼号作戦の前に成功させている。
参加見送り組
予定変更で第十方面艦隊第五戦隊に組み込まれ、シンガポールに残留となった。
共に輸送任務中にそれぞれ英潜水艦、英駆逐隊の雷撃により沈没しているが、
第一駆逐隊の神風により乗組員は救助されている。
足柄
羽黒
その他
途中で援護に入るなどした旧式艦達。
伊勢日向でもかなり低速であるが、それでもついていくのには苦しく、落伍したりはぐれたりしている。
神風
第一駆逐隊の片割れ。
馬祖島にて完部隊と別れ、シンガポールへ向かう。
先述の通り、足柄と羽黒の最期に立ち会っている。
余談ではあるが、初霜とは先代で姉妹艦であった。
艦これにおいては2016年内の実装がほのめかされている。
野風
第一駆逐隊の片割れ。
同じく馬祖島で完部隊と別れ、シンガポールへ向かう。
数日後に輸送任務中に戦没。
汐風
神風たちよりも古い、峯風型の駆逐艦。
悪天候と暗黒のため、完部隊からはぐれる。
余談ではあるが、回天母艦としての改装を受けたこの汐風、奇しくも北上が率いていた時の第二水雷戦隊所属であった。
蓮
樅型駆逐艦(丁型駆逐艦ではなく、神風型駆逐艦と同時期に作られた二等駆逐艦)
偶然、完部隊と合流し、艦長は喜んで護衛を申し出るが、速力が足りず落伍する。
ちなみに霞や初霜と同じ浦賀船渠生まれである。
史実
詳しくは北号作戦参照
ざっくりいうと、南方に進出していた健在の艦艇を来るべき本土決戦の戦力とするために、持てるだけの資源を持って、本土に無事に帰ることを目的とした作戦である。
帝国海軍最後の作戦成功ならびにキスカ島撤退作戦に並び奇跡の作戦と称される作戦であった。
輸送艦ではない完部隊が運べる物資などたかが知れており、
礼号作戦の総評と混ざっているのか「この作戦成功も大した意味はなかった」と言われることもあるが、
一隻も欠けることなく本土に帰投したことで目的は達成されていた。
戦争末期の絶望的な戦局にあって、作戦目的を損害無く達成したという1点において、戦争中盤までよく見られた「戦闘で勝ったけど作戦は失敗」よりもある意味価値は高いのである。
因みに本作戦の名前の由来ともなった、輸送船による南方資源の強行輸送作戦である「南号作戦」もあり、こちらは延べ30隻中24隻を失いつつ17万キロリットルの重油、航空機用ガソリンを本土に輸送した。この時期これだけの量の石油の輸送に成功した意味は決して小さくなく、特に航空機用ガソリンはこの後の本土防空戦を賄う貴重な燃料となった。
輸送船団の壊滅という代償のもとに、血の一滴の燃料を輸送するという、本作戦とは正に対称的な結果となった。(参加艦艇はタンカーや二等駆逐艦、海防艦などのため、艦これ実装艦は天津風のみである)
名前の由来
松田司令官は「『完』部隊。どうだろう。完遂するの完。そういう意味である」と最初に言ったが、
伊勢の小滝副長が「『完』ですか。これで『完了』であってもらいたいものですな」と返したのに対し、
「本当はそういう意味もある……」と本音を漏らしている。
出典:http://blog.goo.ne.jp/tsukutaku8384/e/e5d192b1103e0ed1fd909a54f4cc8f57
関連タグ
北号作戦 当作戦
礼号作戦 礼号組 当作戦の参加艦艇はすべて礼号作戦の参加予定艦艇であった。
北号組 完部隊とおおよそ意味は同じ。