CAIVS・CAESAR・GERMANIVS・AVGVSTVS
PONTIFEXMAXIMVS
DMINVNSV
TRIBVNICIAEPOTESTATIS Ⅳ
IMPERATORⅧ
CONSVLⅤ
PATER PATRIAE
AEGYPTIFX MAXIMVS
PANNTIFX MAXIMVS
DACTFX MAXIMVS
PANNTIFX MAXIMVS
AEGYPTIFX MAXIMVS
GALLITFX MAXIMVS
PANNTIFX MAXIMVS
GERMANIVTFX MAXIMVS
CAPPADOCIAE MAXIMVS
【DAMNAO MEMORAE】
原表記 | CAIVS・CAESAR・GERMANIVS・AVGVSTVS |
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生没年 | 紀元12年8月31日 - 紀元41年1月24日 |
在位期間 | 紀元37年9月18日 - 紀元年1月24日 |
正式タイトル | Gaius Ceaser Germanicus Augustus,Pontifex Maximus,Tribuniciae ConsulⅤ,Imperator,PotestatisⅣ,Pater Patriae |
訳 | ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス・アウグストゥス・最高ローマ神殿司祭・王・弁護監5回行使・統領5回・司令官勝利1回・国父・エジプト長・ガリア(フランス)長・パンノニア長・ゲルマニア(ドイツ)長・カッパドキア長・記録抹殺(無かったことに) |
Caligula
カリグラ(あだ名)
CV:柏倉つとむ
全軍司令官(ローマ皇帝・在任AD37-41.4年)
ローマ共和国(S・P・Q・R)の政治家。非共和主義者。ニュータイプ的専制独裁主義者
神のような主(ドミヌス)(ユピテル主神の親戚)
第3代ローマ共和国とローマ市民の第一人者(プリンス)
カエサルとアウグストゥスの後継者 ローマ神話教徒
執政監(コンスル・政治の長)
最高ローマ神殿司祭(教皇)他
本名ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス(CAIVS CAESAR GERMANIVS)
第3代ローマ最高指導者(元首・ローマ皇帝・ローマ帝・事務局長)、在任37~41年、アウグストゥスとティベリウスの養子にして第一の後任者であったゲルマニクス(ゲルマニクス・ユリウス・カエサル、CERMANIVS JVLIVS CAESAR)( BC15-D19)と大アグリッピーナ(JVLIA VIPSANIA AGIPPINA .MAJOR)の3男として生まれた。通称としてカエサル・ゲルマニクス帝を使用する
起動戦士ZZガンダムのキャラグレミー・トトをを入れているけれど、実際のカリグラのプロフィール(石像)は実際の肖像に近いものがある。このキャラも設定も途中から性格が豹変したことになっているので、これも近い。カリグラ(CARLIGRA)はローマ軍歩兵の軍靴の通称で、ゲルマニクス司令官がカエサル・ゲルマニクスほか長男・次男をミニチュアの司令官のローマ軍甲冑の服を着せてお披露目させたことがあった。ローマ軍の将兵が美少年に見えたガイウス・ゲルマニクスを可愛がり『カリグラ閣下』とあだ名をつけたというような文献があるようだ。
公的な評論もあるように、ゲルマニクス一族はアウグストス(オクタヴィヤヌス)が第一人者の後任者とされていたが、後任の最高指導者(第一人者)はクラウディウス出身のティベリウス(在任AD14-37)が就任した、エンペラー・ティベリウスの治世は安定はしてはいたが政治的な闘争により弾圧的なローマ親衛隊が跋扈する息苦しい社会を作り出し、最高指導層のユリウスカエサル家系にしても関係者もティベリウスの命をうけた親衛隊が監視対象となり、突如として粛清されることが日常茶飯事で首都ローマはかなり息苦しい状態だった。カエサル・ゲルマニクス司令官が前線で急死すると悲劇は起こり、長男・次男はティベリウスの命を受け予告なくローマ親衛隊により拘束され残虐に殺害された。カエサル・ゲルマニクスも当時に拘束されている。これによってゲルマニクス家は事実上滅亡した。
指導者ティベリウスはAD26年に人間不信がたたり、カプリ島に無期限転居することが元老院とローマ民会により決まった。
ティベリウスは自信のカプリ島に付き添いとして、ローマ中央の政界の息子・姉妹たちも一緒に同行するようとの命令書をだす、これは自身への反逆をした場合への死を持って報復する人質である、軟禁されていた14歳のカエサル・ゲルマニクスや生き残った姉妹も奴隷同然で連行されたと思われる。
真実は定かではないが、ティベリウスはカプリに転居してから、本来セレブ階層であった人質の息子・姉妹を当時のローマの生活奴隷同然に酷使したというような資料も残っている。さらに当時の生活奴隷に良くあった自身の欲望のはけぐちとして男娼・娼婦のようにも使ったとされている。本来はこのようなことをすることが必要がなかった少年・少女をである。当然奴隷であるから、拒んだり・抵抗したりすると親衛隊から公開拷問的(鞭打ち、実際骨が砕ける)なことをされただろうし、殺された子息も結構いただろう。
もしかしたら、ティベリウスはそういった残虐趣味をローマの政治上層部に計算させて畏怖いたのかもしれないが、どちらにしても性格が悪すぎる。
カエサル・ゲルマニクスも14歳から27歳(AD30)、ティベリウスの生活奴隷として生活をしていたとされる。資料としては『こんな見下げは果てた主人(ティベリウス)もいないが、こんなに哀れな奴隷(カリグラ)もいない』と当時の識者が一文残している。
ティベリウスは31年にローマのセイヤヌスとその支持者一党をローマ親衛隊をフル活用し粛清した。しかしこれによってティベリウスの支持はあがらず、冷血なイメージがさらにひろまったようだ。さらに『カプリ島での放蕩生活』が一大スキャンダルになり、野党元老議員・ローマ民衆・ローマ民会(コミーティア)・ティベリウス以外の弁護監(護民官)が最高指導者に対し不信任案を出しまくっていたかもしれない。
ティベリウスは31年にローマのセイヤヌスとその支持者一党をローマ親衛隊をフル活用し粛清した。しかしこれによってティベリウスの支持はあがらず、冷血なイメージがさらにひろまったようだ。さらに『カプリ島での放蕩生活』が一大スキャンダルになり、野党元老議員・ローマ民衆・ローマ民会(コミーティア)・ティベリウス以外の弁護監(護民官)が最高指導者に対し不信任案を出しまくっていたかもしれない。しかしこれほどの不信任がでてもティベリウスが最高指導者の地位を追われることはなかったが、統領(コンスル)・上級属州命令権・最高ローマ神殿司祭・最高弁護監(最高裁判官)の職掌の停止が元老院と民会により決まり、ティベリウスは全軍司令官(インペラー)以外はもちえない死に対な存在となった。それでもティベリウスはカプリ島から一歩も出ることはなかった。皮肉かもしれないが、引きこもり時代は一番共和国ぽいローマ世界であった。
AD37 『第2代ローマ皇帝』だったティベリウスはカプリ島亡くなった。死に方もいろいろ推測が飛ぶぐらいの不穏な存在な最高指導者だった。残虐なことをかいたけれど、本当はマイケル・ジャクソンのネバー・ランドのようなものを作った生活スタイルだったのかもしれない。ティベリウスは世間的にはガチガチの武官の鑑のような人間と推測されるので、このような羽目を外した団らんは首都ローマで元首としてふるまっている場合では絶対にできなかったと思われる。
参考文献
・世界大百科事典6巻〈島創平〉
・グレミー・トト(じゅまぺーる)