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光格天皇の編集履歴

2016-07-15 22:32:56 バージョン

光格天皇

こうかくてんのう

江戸時代の第119代天皇。閑院宮家の出身で、現在の皇統の祖となった。現在のところ、歴史上最後の上皇でもある。

在位中の元号は安永、天明、寛政、享和、文化。まさに江戸時代の文化の爛熟期である。中世以来絶えていた朝廷の儀式の多くを復興させ、皇室の権威の復権につとめた。


天皇践祚

 明和8年(1771年)、閑院宮典仁親王の第六皇子として生誕、諱を師仁、のち兼仁(ともひと)という。誕生後すぐに聖護院宮忠誉入道親王のもとに預けられ、ゆくゆくは聖護院門跡を継いで出家することを期待されていた。


 安永8年(1779年)10月、第118代・後桃園天皇が22歳で崩御すると還俗、天皇の養子となって践祚、皇后に後桃園天皇・唯一の皇女・欣子内親王を迎えることで皇位を継承した。


尊号事件

 光格天皇が皇位に就くことができず、摂政、大臣以下の地位に留め置かれていた実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたところ、江戸幕府は「禁中並公家諸法度」を理由に反対、一時関係が悪化した事件である。

 当時、幕府は11代将軍徳川家斉の時代で、実権は老中首座・松平定信が握っていた。天皇の意向を受けた定信は、「たとえ後高倉院や後崇光院の前例があろうと、名分を乱すことは許されない」として強く反対し、幕閣の意見も朝廷の申し出を認めないことで一致した。

 幕府は表向き朝廷の意向に異を唱えたが、水面下では定信が天皇の叔父にあたる関白・鷹司輔平に書簡を宛てて真意を伝えるなど、朝幕関係の悪化に歯止めをかけるべくさまざまな配慮を見せ、寛政3年(1791年)、朝廷はいったん尊号賦与を断念する姿勢を見せている。

 しかし、関白に一条輝良が就任すると状況は一変、朝廷は再び尊号の賦与を主張、翌寛政4年(1792年)、朝廷は幕府に申し入れを行い、再三にわたり回答を督促する行為に出た。そこでやむなく幕府は尊号賦与の延期を伝え、議奏・武家伝奏の江戸下向を命ずる厳しい態度に出た。結局、幕府の処断により尊号賦与は阻止されたが、同時に典仁親王には千石加増も認め、幕府は一定の配慮を朝廷に見せた。


 なお、維新後の明治17年(1884年)、閑院宮典仁親王は明治天皇の高祖父にあたることから「慶光天皇(きょうこうてんのう)」と諡号と「太上天皇」の尊号が贈られた。


仁孝天皇に譲位、崩御

 文化14年(1817年)、天皇は第六皇子・恵仁親王(後の仁孝天皇)に譲位してのち、天保11年(1840年)11月に崩御、後月輪陵(京都府東山区)に葬られた。

 これ以降、存命中に皇位を譲った例は他になく「皇室典範」にその規定もないことから、今のところ、歴史に残る最後の「上皇」である。


天保12年1月27日(1841年2月18日)、朝廷は62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。


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