解説
L-60は、スウェーデンのランツヴェルク社がL-10に次いで1935年に実用化させた軽戦車。
同時期の軽戦車と比べて優秀な性能を有し、自国のほかハンガリーやアイルランドで採用された。
この戦車の最も特徴的な点はなんと言ってもサスペンション。先進的なトーションバー方式による優秀な走破性を有し、これは制式戦車としては最初期のものとされる。
主武装は当初20mm機関砲だったが、後にボフォース社製37mm戦車砲に強化された。
ドミニカ内戦とL-60
各国で強力な戦後型主力戦車が跋扈する冷戦期の1956年。中米に位置するドミニカ共和国はなけなしの財力で旧式化も甚だしい戦前型軽戦車のL-60を20輌購入、自軍に配備した。
1961年、トルヒーヨ独裁体制が崩壊すると、翌62年には30年ぶりの選挙が行われ、63年にはケネディに憧れるフアン・ボッシュが大統領に当選。これにより1963年憲法、通称ボッシュ憲法に基づく土地改革がなされるはずだった。
しかし、低階級者の経済力向上に伴う共産主義の拡大を恐れた聖職者や経済界のエリート、軍事評議会、不満を募らせる寡頭支配層などが結託したクーデターが勃発。
ボッシュは追放され、憲法の施行も停止されてしまった。
1965年4月24日、ボッシュ憲法の施行を求める立憲派の陸軍軍人が中心となったクーデターが発生、ここにドミニカ内戦が勃発し、ドミニカ共和国市民の多くは立憲派に加勢した。
27日、戦車34輌を擁する政権軍が立憲派からの首都奪還を試み、これに立憲派が反撃。このドゥアルテ橋の戦いでは政権軍が退けられ、立憲派は政権軍が放棄した数輌の戦車を鹵獲。その中にはL-60が含まれていた。
だが、ジョンソン政権のアメリカ合衆国がドミニカ共和国現政権の救援要請を受け、1962年のキューバ危機のように中米地域で共産主義が拡大することを防ぐべく米軍の派兵を決定。
中米各国の抗議も受け入れられず、翌28日、パワーパック作戦を展開する米軍と現政権軍によって立憲派の掃討が始まった...。
M48パットン | M50オントス |
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強大な米軍に対し、市民を主体とする立憲派は果敢に抵抗。
その象徴的存在ともいえる立憲派の最高戦力となっていたのが、何を隠そうL-60(とAMX-13)。ほんの数輌ではあったが、間違いなく立憲派にとっては心強い存在だったといえよう。
だが、その相手となったのは90mm砲搭載のM48パットン主力戦車や106mm無反動砲搭載のM50オントス自走砲。29日の戦闘では圧倒的火力を前に3輌のL-60が撃破された。
結局、立憲派は抵抗むなしく鎮圧され、以降もそのような運動は厳しく取り締まられた。
戦後、新規に戦車を導入するような財力の無いドミニカ共和国は、内戦中に破壊されたL-60を修理・修復し、再配備。
21世紀に入って以降の2002年まで運用は継続された。
ドミニカ共和国軍では現在も1輌のL-60が稼働可能な状態で保存されており、歴史を物語る存在となっている。