概要
生没年 延暦5年(786年)9月2日~承和9年(842年)7月15日
第50代・桓武天皇父、皇后・藤原乙牟漏を母として生まれ諱を神野(賀美能)という。同母兄として後に平城天皇となる安殿親王、異母弟として嵯峨天皇の跡を継いで即位する大伴皇子(淳和天皇)らがいる。
平城天皇即位
大同元年(806年)5月、父・桓武天皇の崩御に伴い皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、神野(賀美能)親王は皇太子(皇太弟)として立てられた。
平城天皇は後宮の秩序を乱したことで父・桓武天皇に宮廷を追われた藤原薬子を呼びもどし、後宮を束ねる「尚侍(天皇と官人を取り次ぐ要職)」に任じたが、天皇の威を借りた薬子と薬子の式家の繁栄を図った兄・藤原仲成の横暴に朝廷は大いに乱れたという。
その一方で、平城天皇は病弱でありながら内政面で優れた手腕を発揮、新都造営や蝦夷追討などによって逼迫した国家財政の再建させるべく、財政の緊縮化と公民の負担軽減に努め、宮司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚改革に先鞭をつけた。地方行政の面でも畿内・七堂に地方官を監視する観察使を置き、律令制度の再建が志向された。
薬子の変
大同4年(809年)、病気療養のため平城天皇は皇位を同母弟・神野(賀美能)親王に譲位、平城上皇は平城旧京に隠棲することとなったが、上皇は旧都において健康を回復、上皇の命令として政令を乱
発し藤原仲成・薬子らも加担、「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態となった。
大同5年(810年)9月6日、平城上皇は平安京を廃し、平城京に都を戻すよう命令したが、9月11日、嵯峨天皇の命により藤原薬子の官位を剥奪後に自害、藤原仲成は捕らえられて殺害され、平城上皇は東国に逃れたが追手がいることを知り、平城京に戻って剃髪・出家、近親らも追放されて平城京で孤独な生活を送ることとなった。
なお、平城上皇の失脚により皇太子・高丘親王(平城上皇の第三皇子)は廃され、嵯峨天皇の異母弟・大伴親王が新たな皇太子に立てられている。
嵯峨天皇が新設した官僚組織
-蔵人頭(くらうどのとう)…「尚侍(ないしのかみ)」に就いていた藤原薬子が兄・藤原仲成と調整を壟断していたため、嵯峨天皇は機密情報を管理する「蔵人頭」を新設、巨勢野足や藤原冬嗣らを起用、天皇と太政官の連絡や朝廷事務の処理にあたらせた。
-検非違使(けびいし)…京の治安維持と裁判所の機能を持つ役職。
-勘解由使(かげゆし)…国司交代の際の監視役。
これらの管理は律令に規定されていない令外官であり、必要に応じて令外官を置くことで柔軟な政治運営が可能になった。
嵯峨天皇の政策
これまでの律令制度に固執すると政権運営に支障をきたすため律令を改訂、『弘仁格』は律令を現状に合わせて改め、『弘仁式』はその施行細則を定めて『弘仁格式』として再構成、政治的安定期をもたらさした。
農民を雇用、食料と労賃を与えて新田を開発する事業を行い、官田・諸司田を設け、税収の増加に道筋をつけることに成功している。
嵯峨天皇の文化事業(弘仁文化)
文化面では、中国文化を積極的に摂取、その文学的達成が勅撰三詩集である。
弘仁5年(814年)、天皇の命を承けて編纂された『凌雲集』という漢詩集の出現は、貴族社会における漢詩文の制作を一段と活発化させ、『文華秀麗集』(弘仁9年(818年))、『経国集』(天長4年(827年))という勅撰詩(文)集を相次いで成立させることになる。
しかも、『凌雲集』と『文華秀麗集』では、撰者たちは作品の採否に迷ったときには最終的な判断を天皇に仰いでいる。
歌人としては三詩集を通じて嵯峨天皇の御製は93首と最も多く収めており、天皇は歌人としてもこの時代の代表的存在であった。
また、嵯峨天皇は朝廷の年中行事を定めた『内裏式』全三巻を編纂、宮廷儀式のマニュアルとして尊重された。
淳和天皇に譲位
弘仁14年(823年)、皇太弟の大伴親王(淳和天皇)に位を譲り上皇となり、その後に皇位に就いた仁明天皇(嵯峨天皇の第一皇子・正良親王)の承和9年(842年)に崩御するまで、政治的にも文学の世界においても大きな存在であり続けた。なお、嵯峨天皇の遺児の多くは臣籍に降下して嵯峨源氏となり、源信、源融ら朝廷の実力者を多く輩出した。
平安時代を代表する能書家でもあり、空海、橘逸勢とともに「三筆」のひとりとして知られる。