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独ソ戦の編集履歴

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独ソ戦

どくそせん

第二次大戦におけるドイツとソ連の戦い。数千万人規模の死者を出した。

独ソ戦とは?

独ソ戦(どくソせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチスドイツを中心とする枢軸国ソビエト連邦ソ連)との間で戦われた戦争を指す。


 ドイツ側の呼称は東部戦線、ソ連側の呼称は大祖国戦争。


 ナチズム共産主義という相容れない2つのイデオロギーが真っ向から衝突したこの戦争は、戦闘員・民間人合わせて数千万単位の死者を出し、「人類史上最悪の災厄」と称された。


大戦の当初はポーランドを分割し、相互不可侵を取り決めていたドイツとソビエトであったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入し、戦争状態となった。


大まかな経過

1939年に締結したモロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の敵同士だった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス党政権下のドイツは反共の急先鋒であったからである。欧州を巡る混乱の中、反共という包囲網による孤立と疑心暗鬼の中にいたソ連は、イギリス・フランスによるドイツへの宥和的態度に不信感を募らせた。また、ドイツの方も、東方進出の一環であるポーランド侵略を行うにあたり、すぐさまソ連と衝突することは避けたかった。この両者の奇妙な利害の一致が、不可侵条約を締結する背景となった。

ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、ソ連は、モロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づき緩衝地帯での分割を進めた。このポーランド分割によって、ドイツとソ連という根本的なイデオロギーで相反する列強は国境を接することとなった。いくら不可侵条約を締結したとは言え、元より信頼し合うわけでもない両者の開戦は時間の問題となっていた。

アドルフ・ヒトラーにとってロシア、ウクライナの穀倉地帯はドイツ民族に必要不可欠な東方生存圏でありソ連の打倒は我が闘争執筆時代からの目標だった。さらに当時ドイツと交戦中のイギリスはソ連とアメリカの参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連が排除できればイギリスが講和を提案するのではと考えていた。

1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は対ポーランド戦における同盟関係から第一次世界大戦の開戦のごとく結果的に始まったものであるが、対ソビエトの戦争はヒトラーにとって、ドイツの生存圏の拡大というナチスの思想上、避けられないものであった。この地政学的な発想とナチスの思想に根付いた人種的優越に基づく争いにより、ナチス・ドイツとソビエト連邦の二大列強の戦いは第二次世界大戦における他の戦線と異なり、民族の存亡を賭けた壮絶な戦いを繰り広げることとなるのである。フランス・スペイン・ノルフェーからは反共主義者が志願兵としてドイツ軍に加わった。ロシア人の反共主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。

開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党によるロシア化政策に苦しんできたウクライナの一部の住民は、ドイツ陸軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり、共産主義者やユダヤ人を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。しかし、スラヴ民族の奴隷化を目論むドイツの過酷な占領政策は親独的な地域住民の感情をも逆撫し、彼らを抵抗分子のパルチザンに変えてしまうものであった。その占領政策は苛烈を極め、パルチザン駆りによって多くの人民が虐殺されていった。やがて攻勢に回る側となった赤軍は、東欧諸国に侵入するとドイツに協力したウクライナ人への報復として過酷な殺戮・略奪・追放(シベリア送り)を行い、戦場となった東欧やドイツ東部領土は徹底的に破壊された。

近代戦という破壊的な兵器の登場の上に、スターリンとヒトラーという独裁者が正面から衝突したこの戦いにおいて犠牲者(戦死、戦病死)の人数は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人である。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。初期のソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している。戦争終了後のドイツ兵の捕虜300万人。うちシベリア抑留などで死亡したのが100万人である。

緩衝地帯の国家が枢軸・連合のどちらかに鞍替えするといった状況の中、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの支配領域となることにより戦争は終結する。


詳細


1941年

6月22日、ドイツ・ソ連国境よりドイツ軍の侵攻が開始。開戦当初は一方的な奇襲により各戦線でほぼドイツ軍が赤軍を圧倒し、北方軍集団はレニングラードを包囲、中央軍集団はミンスクを包囲し赤軍西部正面軍を殲滅した。また、ソ連赤軍の航空部隊はドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握した。しかし南方軍集団は、開戦前ドイツに対し赤軍がウクライナの防衛を優先しキエフ特別軍管区とオデッサ特別軍管区に戦力を集中していたため進撃はおくれがちだった。

そこでヒトラーは8月にスモレンスクを陥落させた中央軍集団の機甲部隊を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊を殲滅し、キエフ、ハリコフを占領した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す。例年より早い冬の到来や赤軍の堅固な縦深陣地がドイツ軍をはばみクレムリンまであと十数キロのところまで迫ったが攻勢は頓挫し、モスクワ攻略は失敗した。短期決戦を挑んだドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈する。電撃戦を続けてきたナチス・ドイツにとっては初めてのケースであり、補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。

その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入された。この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅したが、ソ連赤軍の奮闘を示すエピソードである。

冬季戦に長けたこれらの部隊の活躍もあり赤軍は各地でドイツ軍を食い止めることに成功、12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ正面から後退させる事に成功したが、ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦により赤軍は各個撃破され攻勢は失敗、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。

ソ連は出来うる限り工場の生産能力の移動を行い、のべ数百万両とも言われる貨物列車によりドイツの手の届かないウラル山脈近くにまで移動させることに成功した。このことにより一時的に生産力は格段に低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。

1942年

前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が建てられ、南部戦線にて、ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的としたブラウ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くが、赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。

ヴォルガ川の要衝の地におけるスターリングラード攻防戦において、ドイツ軍は、市街戦での消耗戦に陥る。また、コーカサスを目指した軍集団は、嶮しい山岳地帯とソ連軍の抵抗により、こちらの進撃も行きづまってしまった。冬季が訪れると11月には、再びソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった。

ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、1943年1月後半に総司令官のパウルス元帥以下約10万人の枢軸軍が投降し捕虜となる。

1943年

ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。なによりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された(クルスクの戦い)。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。

時を同じくしてシチリアへの連合軍上陸の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。

1944年


開戦から3年目の日、ドイツ軍との戦闘経験値をつみあげ縦深攻撃理論を確立させた赤軍は夏季攻勢バグラチオン作戦を発動。ドイツ軍は、赤軍夏季攻勢を南部戦線と予測しており、ソ連軍の欺瞞作戦の効果もあって、赤軍攻勢はドイツ軍の意表を突く形となった。物量で赤軍はドイツ軍を圧倒し、ドイツ中央軍集団は事実上の壊滅。ドイツ軍は白ロシア全域から駆逐され、開戦前の国境付近まで後退を余儀なくされる。この作戦は縦深攻撃理論の集大成とされ、東部戦線の戦力を粉砕されたナチス・ドイツの敗北は不可避となった。

南部では、4月にクリミアが陥落。4月には挫折(第一次ヤッシー=キシニョフ攻防戦)するも、赤軍は再度8月にヤッシー=キシニョフ攻勢でルーマニア侵攻に成功し、ルーマニアでは政変がおこって、ドイツに宣戦を布告した。9月には、ブルガリアとフィンランドも枢軸側から離脱した。一方でハンガリーは、ドイツ軍主導のクーデター計画パンツァーファウスト作戦の成功により枢軸側に留まった。

1945年

2月14日、ハンガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。

4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。

5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。しかし、独ソ戦すべての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する5月11日のことだった。


特徴

日米の太平洋戦線とは違い、地上戦が主だった独ソ戦では一度の大会戦で約100万単位の兵士や数千機もの航空機、数千台の戦車、および火砲が大量に使用され、消耗していったのが特徴である。


※例

バグラチオン作戦

ドイツ軍

兵士850,000人

戦車 553輌

航空機 839機

火砲 9,500門

ソ連軍

兵士1,250,000人

戦車、自走砲 4,070輌

航空機 5,372機

火砲 24,363門


また、ソ連はアメリカからレンドリースにより大量の車両や航空機、列車を使用していた。


pixivでは

戦闘機や兵器の絵が主流だが、場外乱闘している絵も最近は増えてきている。


参考動画

ドキュメンタリー 独ソ戦

YouTube版[翻訳なし]

http://www.youtube.com/playlist?list=PL9FEB70357B7D40D3


ニコニコ版[翻訳付き]

http://www.nicovideo.jp/mylist/27496448


関連タグ

大祖国戦争 第二次世界大戦

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