現役時代
1983年にヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)にドラフト外にて入団。
入団1年目にプロ野球のレベルの高さに衝撃を受け、当時は辞める事ばかり考えるほどの試練に見舞われた。
さらに2年目には特定疾患であるメニエール病にかかり、試合中にボールが2個どころか3個までにぶれるほどの目眩に襲われるようになり、1989年にゴールデンクラブを受賞するほどの活躍を見せるも、翌年1990年に現役を引退。
プロ通算成績336本安打7本塁打67打点。
引退後
引退翌年から野球解説者・野球評論家として活動を開始し、これまでにテレビ朝日・TBSラジオで解説、スポーツニッポンで執筆を行う。
この他、2008年より白鴎大学の教授として籍も置いている。
またキャスター時代に、数多くの高校野球選手にインタビューを行っており、その中には現在北海道日本ハムファイターズで活躍する選手も居る(後述)。
現在
2012年より北海道日本ハムファイターズの指揮官に就任。
1年目は絶対的エースであったダルビッシュ有の渡米もあり、多くの解説者がファイターズの不振を予想する中、吉川光夫らの活躍に救われ就任1年目でのペナント制覇に恵まれた。
余談ではあるが、ファイターズOBである岩本勉氏が「ファイターズ優勝しようもんなら、頭を丸める!!」と発言しており、北海道のローカル局にて断髪式を大々的に中継された。
しかし翌2013年はその吉川の絶不調などにみまわれ、チームとしては12年ぶりの最下位に終わるが、シーズン開幕前に任期延長の契約を結んでいたので、解任は免れている。
だが2014年以降は西川遥輝・中島卓也・岡大海ら若手の成長、ブランドン・レアードらの助っ人外国人の活躍などもあり、連続でAクラス入りを果たしている。
中でも大谷翔平の育成には絶賛の評を集めており、「大谷のファイターズ入りは、キャスター栗山が居なかったら有り得なかった」と言われるほど、篤い師弟関係を築き上げている。
その他
その名前が縁となり、キャスター時代に北海道栗山町の観光大使を依頼され、現在ではその栗山町へ正式に転居している。
またファイターズ主催のモノとは別に、毎年栗山町にてファイターズ絡みのイベントも行っており、2012年の優勝のときは栗山町独自の優勝パレードを行った。