概要
本名は福田広。生年は不明。
出雲国母里藩の医者の出とされるが、確証はない。
医学を学ぶために江戸に出、福島伝之介に甲州流軍学を学んだ。水戸藩執政の武田耕雲斎を尊敬していたことから武田観柳斎を名乗るようになったとされる。
また、江戸滞在中に天然理心流と何らかの接点を持っていたと考えられている。
文久3年(1863年)12月までに新選組に入隊。切腹した野口健司の埋葬手続きを行ったという記録がある。
池田屋事件当日の朝には古高俊太郎を捕縛し、浪士潜伏の情報を掴んだ。池田屋においては近藤勇の隊に属し、2階から飛び降りてきた浪士を斬ったといわれる。
現場においては捕物で活躍する一方、近藤の政治的ブレーンとしても重用され、江戸や広島への出張に随行した。
慶応2年(1866年)10月に新撰組を離脱。理由は判明しておらず、脱走とも、穏便な除隊とも言われている。
しかし翌年6月、竹田街道にて新選組の手により斬殺された。伊東甲子太郎ら御陵衛士または薩摩藩に接触し反幕活動に身を投じたのが原因とされる。
人物
新撰組を扱う作品では近藤に媚びへつらう強欲な人物というようにマイナスイメージで描かれることが多い。
「武芸の腕は伊東甲子太郎と並び弟子を持つ程だが、欲深く多額の謝礼を要求されるため金の相談はしてはならない」という評価も残っている。
前述の武田耕雲斎を尊敬していたことに見られるように、尊皇攘夷の心が篤かったと思われる。将軍上洛に伴う不逞浪士一斉摘発の際、国学者矢野玄道を捕縛するが、後に直接矢野を訪問し非礼を深く謝罪したという(ただし矢野には甘言と思われ突っぱねられた)。
新選組美男五人衆の一人馬越三郎に男色関係を迫ったという逸話が有名だが、後世の創作である。
創作の武田観柳斎
『幕末恋華新選組』
CV 茂木優
下の者はこき使い、上の者にはへつらうなど、平隊士たちからは嫌われている人物。
近藤に買われて、新選組へ入隊したが、伊東甲子太郎の入隊以降、自分の身の置き場がなくなりつつあることに、危惧の念を抱くようになる。