概説
生没 | 1767~1825年 |
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本名 | 関 太郎吉 |
出身 | 信濃国小県郡大石村(長野県) |
所属 | 松江藩 / 浦風部屋 |
最終成績 | 西大関/254勝10敗2分14預5無41休 (35場所/優勝28回) |
今なお角界で語られる伝説の最強力士。
上記の生涯成績を見ても分かる通り、驚異的な強さを誇ったことから現在においても最強の称号を得ている。
記録によれば「身長197cm/体重169kg」と、当時150cm台が平均身長だった日本人男性としては異端というべき大男で、現代でいうと現役時代の把瑠都関とほぼ同じ体格であった。
若い頃から近在では怪力で知られ、出稼ぎに入った精米所でその剛力を振るって米俵を運搬し、評判となったという。その評判から精米所の主人の伝手で、隣村の好角家の庄屋に推薦されて力士の修行を始める。
「碓氷峠で馬を連れている最中に大名行列と出くわし、道の狭さから仕方なく馬を担いで避けた」(その大名からは力士になることを薦められて頭を下げなかったお咎めを無しにしてもらった)、「庭先で風呂桶に浸かる母親を、突然の雷雨から守るために風呂桶ごと担いで土間へ移した」など、その力自慢を示す逸話は多い。
「大男総身に知恵が回りかね」などともいわれるが、太郎吉は儒教の聖典といえる『四書五経』を理解し、そろばんに親しむなど頭脳面でも大変に優秀だった。
転機となったのは「天明の飢饉(1783/天明3年)」で、飢饉の影響から巡業の中止が相次ぎ、北陸での巡業が中止になった浦風部屋の一門が上原道場に逗留してくる。一門は慰問巡業や力仕事で逗留中の恩を返すとともに、太郎吉たち上原道場の面々にも稽古を付けてくれた。これで太郎吉も着々と下積みを重ねていく。
翌年には浦風からも力士の道を薦められ、本格的に力士となるべく上京する。
上京後すぐには土俵入りせず、さらなる鍛錬のために伊勢ノ海部屋へ入門し、谷風梶ノ助の内弟子となり稽古に明け暮れる。
そして数年の後に谷風の胸を借りて土俵入りを果たし、1788年(天明3年)に部屋の紹介で松江藩のお抱えとなって藩士に出世し、雲州所縁の「雷電」の四股名を頂戴した。