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放浪の民
好戦的な狩猟民族・チチメカがメキシコ中央高原に進出する際、
そのチチメカの中で最も遅れてメキシコ中央高原入りしたのがアステカ族である。
(後13世紀頃にメキシコ中央部に入ってきたらしい)
「アストラン(鷺の地)」と呼ばれる地から渡ってきたとされ
(アストランがどの地域を示しているのかは不明)、
部族神ウィツィロポチトリからの信託を得ながら
新天地を求めて放浪の旅を続ける。
しかしメキシコ中央高原では、既に他の部族が優良な土地に居住し、
アステカ族は他部族の居住地に停泊するも毎回追放され続ける。
(アステカ族の粗暴な気性が他部族から拒絶される要因と思われる)
他部族の都市から追放され続けて長い放浪の末、湖の小島へと辿り着き、
その小島に「テノチティトラン」の名を付け、
1325年(1345年の説あり)、遂にアステカ族は自らの国を持つに至った。
湖の浅瀬に埋立てを施して領地を拡大し、水上農園(チナンパ)を築き、
したたかな知略で周辺都市国家との政略的交流などを行なって勢力を培い、
やがてメキシコ中央高原の覇者としてのし上がっていく。
メソアメリカ最大規模の生贄儀礼
アステカ族の文化の中で特に際立つものは生贄の儀式だろう。
「神々は自らの血と命を捧げて太陽のある世界を創造した。
我々人間も太陽の命を維持するために血を与え続けなければいけない。」
この宗教的思想が生贄の文化を生んだ。
アステカ以前の時代や、同時代のマヤ文明圏(アステカから東側)にも
豊穣や平安を祈願する人身供儀の文化はあったが、
アステカ族の儀式の規模は桁違いで、毎月数百人、数千人規模の生贄が
首都テノチティトランの神殿などで殺されることになる。
生贄にされるのは、殆んどが周辺都市国家から連行された「捕虜」であり、
生贄用の捕虜を得るため、周辺都市国家に「花の戦争」という
戦争を定期的に仕掛けた(戦いのためにわざと対立状態を維持したらしい)。
生贄を捧げるやり方のうち、代表的なものは以下のようなもの。
- 石の台の上に生贄を仰向けに寝かせる
- 数名の神官が生贄の四肢を押さえる
- 別の神官1名が、押さえつけられた生贄の胸を石のナイフで切り裂く
- 切り開いた箇所から心臓をつかみ出す
- 心臓を神聖な器に移し、その鮮血を神像に塗る、または心臓を香炉の火で燃やす
この後、心臓をくり抜かれて絶命した生贄の首を切り落とし、
神殿の頂上から階段へ放り落とし、剥ぎ取られた生皮を神官が着て、
遺骸の肉は儀式限定の食材としてアステカ国民に食されるなど、
太陽の命を養う名目で、きわめて生々しい内容の多種な儀式が行なわれた。
月によって、生贄にされるのは若い男性、若い女性、児童など、
儀式で奉る神々ごとに決められている。
アステカの落日
1521年、スペインから渡ってきた征服者エルナン=コルテスによって
アステカの首都テノチティトランは陥落した。
しかしこの征服劇もコルテス側は楽に済ませられたものではなく、
アステカ軍から命辛々逃げる、スペインからの強制召集命令に逆らうなど、
苦渋の経験の末に成し遂げられたもののようだ。
また、アステカが征服された要因は多く、
スペインからの征服者がメキシコに到着する以前から
首都テノチティトランでは神殿が炎上する幻が見えるなどの怪現象が起こり、
それらが当時の支配者・モクテソマ2世の精神を不安定にさせていた事や、
他にも周辺の都市国家がアステカに対して大きな不満を持っていたため
(多種多量の貢物や生贄用捕虜をアステカから強要されていた)、
周辺都市国家の軍隊が反アステカ勢力としてコルテスの軍隊に加担したなど、
アステカに不利な数多くの要因が重なり合い、アステカは陥落へと追いやられた。
遺跡・遺物
スペインからの征服者によってテノチティトランの都は破壊されてしまい、
現在では大神殿跡(テンプロ・マヨール)のみが、発掘された形で残っている。
発掘されたアステカの遺物はメキシコ国立人類学博物館に、
一部は大英博物館に保管・展示されている。
最大級の発掘品である「太陽の石」は、メキシコ国立人類学博物館に展示。
アステカからスペイン人に贈られたトルコ石象嵌の仮面などは
大英博物館に保管・展示されている。