「アステカ」という名称
「アステカ」という言葉の定義は曖昧なので、ほとんどの研究者は「アステカ」という言葉自体、定義なしでは使わない。
いわゆるアステカ帝国を築いた人々は自らを「メシカ」と称しており、歴史的文脈で「アステカ」といえば普通はこのメシカ族をさす。メシカ族はナワ族(ナワトル語を話す人々)の一派だが、他のナワ族とは来歴を異にする。
一方、語源通りに解釈すれば、本来「アステカ」とは「アストラン」と呼ばれる伝説上の土地から渡ってきたとされている複数の部族をさす。メシカ族のほかに、後に彼らに征服されたテパネカ族や、スペイン人に征服されるまでアステカ帝国と敵対しつづけたトラスカラ(トラシュカルテカ)族も、この定義に従えば「アステカ」である。
このほか、考古学や神話学では、後古典期後期のナワ族全般、さらにはメキシコ中央高原一般を指して「アステカ」と呼ぶことがある。中央高原には、メシカ族とは来歴の異なる部族が多数居住していたが、彼らは異同こそあれ概ね共通する神々を崇めており、これを「アステカ神話」と呼ぶことがある。
このように定義は錯綜しているが、どの分野でも、とくに注記がないかぎり、おおむね「アステカ」といえば「メシカ」を指すと考えてよい。
放浪の民
それまでメキシコ中央高原を支配してきたトルテカ文明が衰退し、それに乗じて好戦的な狩猟民族・チチメカがメキシコ中央高原に進出する際、そのチチメカの中で最も遅れてメキシコ中央高原入りしたのがメシカ族である(後13世紀頃にメキシコ中央部に入ってきたらしい)。
「アストラン(鷺の地)」と呼ばれる地から渡ってきたとされ(アストランがどの地域を示しているのかは不明)、部族神ウィツィロポチトリからの信託を得ながら新天地を求めて放浪の旅を続ける。「メシカ」の「メシ」(メシトリ)というのはこのとき部族を導いた神官の名前だったともいわれる。
しかしメキシコ中央高原では、既に他の部族が優良な土地に居住し、メシカ族は他部族の居住地に停泊するも毎回追放され続ける(メシカ族の粗暴な気性が他部族から嫌われたともいう)。
他部族の都市から追放され続けて長い放浪の末、湖の小島へと辿り着き、その小島に「テノチティトラン」の名を付け、1325年(1345年の説あり)、遂にメシカ族は自らの国を持つに至った。湖の浅瀬に埋立てを施して領地を拡大し、水上農園(チナンパ)を築き、したたかな知略で周辺都市国家との政略的交流、由緒ある他部族との婚姻などを行なって勢力を培い、やがてメキシコ中央高原の覇者としてのし上がっていく。
ちなみに、このテノチティトランには「メシ(メシトリ)の地」を意味する「メシコ」という別名があり、アステカ時代にはむしろこちらの名称のほうが一般的であった。後にアステカの都となるこのメシコ (Mexico) 市が、スペイン人の征服により名前はそのままにメキシコシティとなり、後にスペインからの独立にともなってメキシコという国名の由来にもなった。
三国同盟
当時、メキシコ中央高原を牛耳っていたのは、メシカ族より一足先に移住していたテパネカ族だった。かつてはこの有力部族に苦汁を飲まされたメシカ族だったが、近隣のテスココ、トラコパンと同盟を組み、4代目のメシカ王イツコアトルの代に、ついにこのテパネカ族の首邑アスカポツァルコを陥落させる。こうして、テノチティトラン・テスココ・トラコパンの三国同盟が成立し、帝国的性格を発揮しはじめる。世界史の教科書でいう「アステカ帝国」とは、この三国同盟のことである。
この過程で、メシカ族は自分たちに都合のいいように歴史や神話を書き変えたらしい。アスカポツァルコを征服した際、既存の絵文書を焼き捨てたという記録がある。また、アステカ神話はあちこちに改変や辻褄合わせの形跡があり、文献によって言っていることがバラバラだったりして、それがメソアメリカ神話の研究を困難にしている。「アステカ神話」と言われるものが矛盾だらけなのは、もしかしたら彼らのせいなのかもしれない。
アステカ帝国は続く数代の間にまたたくまに周辺を侵略し、巨大な版図を築き上げる。征服した諸都市からは重税を取り立て、アステカはこの世の春を謳歌した。湖に浮かぶ小島から始まった首都テノチティトランは、このころには拡張に拡張を重ね、最終的な人口は20万人とも30万人ともいわれる。パリやロンドンの人口がたかだか数万人だった時代に、これは桁違いのメトロポリスであった(当時世界最大の都市は北京で人口約100万人)。
メソアメリカ最大規模の生贄儀礼
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アステカ族の文化の中で特に際立つものは生贄の儀式だろう。
「神々は自らの血と命を捧げて太陽のある世界を創造した。
我々人間も太陽の命を維持するために血を与え続けなければいけない。」
この宗教的思想が生贄の文化を生んだ。
アステカ以前の時代や、同時代のマヤ文明圏(アステカから東側)にも
豊穣や平安を祈願する人身供儀の文化はあったが、アステカ族の儀式の規模は桁違いで、毎月数百人、数千人規模の生贄が、首都テノチティトランの神殿などで殺されることになる。
生贄にされるのは、殆んどが周辺都市国家から連行された「捕虜」であり、生贄用の捕虜を得るため、周辺都市国家に「花の戦争」という戦争を定期的に仕掛けた(戦いのためにわざと対立状態を維持したらしい)。
生贄を捧げるやり方のうち、代表的なものは以下のようなもの。
- 石の台の上に生贄を仰向けに寝かせる
- 数名の神官が生贄の四肢を押さえる
- 別の神官1名が、押さえつけられた生贄の胸を石のナイフで切り裂く
- 切り開いた箇所から心臓をつかみ出す
- 心臓を神聖な器に移し、その鮮血を神像に塗る、または心臓を香炉の火で燃やす
この後、心臓をくり抜かれて絶命した生贄の首を切り落とし、
遺骸は神殿頂上の階段から放り落とし、
遺骸から剥ぎ取られた生皮を神官が着て、
遺骸の肉は儀式限定の食材としてアステカ国民に食されるなど、
太陽の命を養う名目で、きわめて生々しい内容の多種な儀式が行なわれた。
月によって、生贄にされるのは若い男性、若い女性、児童など、儀式で奉る神々ごとに決められている。
アステカの落日
1521年、スペインから渡ってきた征服者エルナン=コルテスによって
アステカの首都テノチティトランは陥落した。
しかしこの征服劇もコルテス側は楽に済ませられたものではなく、アステカ軍から命辛々逃げる、スペインからの強制召集命令に逆らうなど、
苦渋の経験の末に成し遂げられたもののようだ。
また、アステカが征服された要因は多く、スペインからの征服者がメキシコに到着する以前から
首都テノチティトランでは神殿が炎上する幻が見えるなどの怪現象が起こり、それらが当時の支配者・モクテソマ2世の精神を不安定にさせていた事や、他にも周辺の都市国家がアステカに対して大きな不満を持っていたため(多種多量の貢物や生贄用捕虜をアステカから強要されていた)、周辺都市国家の軍隊が反アステカ勢力としてコルテスの軍隊に加担したなど、アステカに不利な数多くの要因が重なり合い、アステカは陥落へと追いやられた。
遺跡・遺物
スペインからの征服者によってテノチティトランの都は破壊されてしまい、現在では大神殿跡(テンプロ・マヨール)のみが、発掘された形で残っている。
発掘されたアステカの遺物はメキシコ国立人類学博物館に、一部は大英博物館に保管・展示されている。
最大級の発掘品である「太陽の石」は、メキシコ国立人類学博物館に展示。アステカからスペイン人に贈られたトルコ石象嵌の仮面などは大英博物館に保管・展示されている。
また、当時のスペイン人の記録では、首都テノチティトランは同時期のヨーロッパ都市よりも桁違いに清潔で、市場も整っており、治安も良好とある。