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谷三十郎の編集履歴

2019-05-16 20:01:14 バージョン

谷三十郎

たにさんじゅうろう

谷三十郎とは新撰組にて七番隊組長としていた人物。天保3年? - 慶応2年4月1日(1866年5月15日)

概要

幼少期より直心一派の師範でもあった父から武術を学ぶ。嘉永6年(1853年)1月、家督相続。藩主・板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後、弟・万太郎と共に故郷を出奔し、大坂南堀江町にて道場を開く。

新選組に入隊

加盟の時期は不明だが、元治元年6月に副長助勤、同年12月に八番組長、慶応元年4月に七番組組長・槍術師範を務める。池田屋事件では土方隊の組に属し、事件後は褒賞として17両を賜る。

慶応元年1月、弟・万太郎ら4名で大坂焼き討ち計画を未然に防ぎ(ぜんざい屋事件)、大坂の豪商・加賀屋四郎兵衛に対する献金要請の際は交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功している。

死因は不明だが粛清に失敗して暗殺されたか過度の飲酒による脳卒中と説が分かれる。

フィクションでの扱い

他の隊長らと違い詳細があまりないため、主役で描かれることが少ない。また主役に放っていないもののそれなりに名が知れている武田観柳斎伊東甲子太郎と比べると「誰?そんな人いたの?」と言う扱いである。

大河ドラマ「新選組!」では横暴な態度をとり試衛館時代の面々らと対立していた。

その後仲間が切腹することになった際の介錯を務めるも失敗、狼狽しているところを沖田が止めを刺す、という武士にあるまじき醜態を晒したため、隊内で完全に孤立。居心地の悪さから弟である万太郎と共に脱走を図るも山崎に察知され、先に屯所を抜け出して万太郎を待っていた所に斎藤島田らに捕捉される。切腹を勧められるも抵抗し、斎藤に槍で挑むも一太刀で切り捨てられる。新選組の体裁のために死因は見回り中に不逞浪士に切られたと島田によって偽装された。

関連タグ

新撰組  槍使い

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