日本海テレビ
にほんかいてれび
概要
鳥取県及び島根県をエリアとするが、もともとは鳥取県のみをエリアとしていた。本社を鳥取市に構える。1959年3月3日に放送開始。日本テレビ系列局(NNN/NNS)。
読売新聞や日本テレビと関係が深いだけでなく、鳥取県のバス会社日ノ丸自動車や、鳥取大丸などの入る佳友倶楽部にも加盟し、日ノ丸グループの一員である。ただし鳥取県の新聞社である新日本海新聞社とは資本関係がない。
マスコットキャラクターは豚の「ぶぅ」と鳥の「ピィ」。この一匹と一羽で「ぶっピィ」と呼ばれる。
もともとは産経新聞と旧日本海新聞の資本で立ち上げられた日本海テレビ。フジサンケイグループとの関わりが強かったものの、フジテレビ系列の回線が確保できず、日本テレビ系列の局となったといわれている。
その一方で山陰中央テレビはもともと読売新聞と関係が深かった島根新聞(現在の山陰中央日報)が設立したため、日テレ系列を希望したが、相互乗り入れを視野に入れていたこととフジテレビがUHF局大量免許によりネットワーク拡大に積極的だったことから、フジテレビ系列(FNN/FNS)に加盟した。
相互乗り入れ後は新聞資本のねじれ状態が続いたが、1978年12月、読売新聞とフジサンケイグループが日本海テレビと山陰中央テレビの資本を交換したため、日本海テレビは読売新聞、日テレ、読売テレビと資本的に関係が深くなり、山陰中央テレビはフジサンケイグループに近くなった。
相互乗り入れまで
1954年3月1日に鳥取県米子市のラジオ山陰(現在の山陰放送)が山陰地方初の民放としてAMラジオ放送を開始。これで鳥取県と島根県の両方でラジオ放送でカバーできていた。しかし前述の通り1959年3月3日に日本海テレビが開局し、鳥取県でのテレビ放送を開始したため、当時の「東名阪など大都市圏以外はの県は、1県につき民放テレビ局は1局」という原則が立ちはだかり、ラジオ山陰が鳥取県でラテ兼営化に至らなかった。水面下でラジオ山陰は日本海テレビ(日テレ系列以外にラジオ東京テレビ系列(JNN)加入)と合併を目指すも交渉決裂、12月15日島根県のテレビ局としてテレビ放送開始を余儀なくされる。なお、1959年12月15日にラジオ山陰がラジオ東京テレビの系列(JNN)として開局したことから、日本海テレビはJNNを脱退、日テレを主体としたフジテレビ・NET系列とのクロスネット状態となった。1966年にはNNNに加盟した。その一方でラジオ山陰は「本社は鳥取県米子市、ラジオは鳥取県と島根県、テレビは島根県」という「ねじれ現象」を抱えた。
鳥取県西部では山陰放送(BSS)が視聴できたが区域外受信であるため、BSSは本社のある鳥取県への放送エリア拡大を狙ったが、日本海テレビの反対で実現せず。
ところが1970年4月1日、テレビ島根こと島根放送(現在の山陰中央テレビ)が開局したことで、2県合わせて人口140万人もない地域に3つの民放テレビ局が開局し、これ以上それぞれの県単位で民放テレビ局を設立できないとされ、旧郵政省(現・総務省)はBSSの長年の「ねじれ状態」解消を目指し、民放テレビ局でも鳥取県と島根県を単一地域とみなすようになった。
1972年9月22日、BSS・日本海テレビ・山陰中央テレビの相互乗り入れが始まった。それにより日本海テレビからフジテレビ系列の番組は山陰中央テレビ、TBS系列の番組はBSSに移行したため姿を消した。NNN/NNS単独の非マストバイ局となった日本海テレビだったが、空いた枠にはNET系列の番組が入り日テレ・NET両系列のクロスネット局のような編成となった。NET系列のワイドショー番組は山陰中央テレビとも分け合ったため、山陰地方では2局同時に同じワイドショーを見られる現象が起こった。
NNN/NNSマストバイ化
1989年春に鳥取県内のとある大規模団地で共同受信アンテナの設置が計画された際、ABCテレビ、読売テレビ、サンテレビの区域外再放送を計画したが、これに日本海テレビ・山陰放送・山陰中央テレビが抵抗した。
この団地は有線テレビ放送法で「区域外再放送に関し、地元及び区域外の放送局の同意を得なければならない」とする、接続端子数500以上の施設に該当した。住民側は鳥取・島根で電波相互乗り入れをした後も山陰放送と日本海テレビで『モーニングショー』やテレ朝の昼の情報番組など一部の番組が放送されるなど、乗り入れ前の名残が見られた変則的な番組編成を反論として掲げた。
この問題が地元紙の日本海新聞にも掲載されたことで、1989年10月1日、日本海テレビはNNN/NNSマストバイ局となった。