推古天皇
すいこてんのう
御名は額田部皇女。第30代敏達天皇の皇后。
日本皇室で初めての女性天皇で、即位以前からたいへんな権威のある女帝であられた。
容姿端麗で、物事を処すのに乱れることがなかったという。
39歳のときに崇峻天皇が弑逆され、蘇我馬子の強い要請により皇位をお継ぎになった。
天皇は即位されると皇太子の厩戸皇子に政治をすべてお任せになった。いわゆる聖徳太子の摂政である(現在の摂政とは立場は異なる)。
摂政の聖徳太子と大臣の蘇我馬子が国政や外交の実務にあたり、推古天皇がその両者の上位にあって為政者の勢力均衡に注力された上で統治にのぞまれた。
雄略天皇の時代以来、日本はシナ大陸とかかわりをもたずにいたが、崇峻天皇の時代になって大国隋が登場した。こうして日本は隋とどのような関係を結ぶかという難しい局面を迎えた。
推古天皇は、隋の属国とならずシナ王朝に対して、自立した外交を試みになった(遣隋使)。
そこでそれまでの君主号「王」をやめて、推古天皇16年(西暦608年)に「天皇」の称号が成立し、これをつかうようになった。
国内面では、これまでの豪族層による民衆への一方的な私的・個別的支配に制動を加え、国家自体が民衆のくらしにも責任を負うべきとの思想があらわれた(「十七条憲法」)。
公民制への萌芽であり、この思想が実際の制度となるのは持統天皇4年(690年)のことであった(庚寅年籍)。
中央の統治機構面では、官司制のきざしがあらわれ(馬官・寺官・大椋官など)、実際に政治を行う宮殿(小墾田宮)が整備され、役人の格づけが行われる(冠位十二階)などのめざましい改革があった。
日本の社会に広く溶け込み根づいた外国由来の宗教といえば仏教くらいのものである。
もちろん、いっぽうで在来の伝統的な神道も大切にされている。
推古天皇36年(西暦628年)、病が重くなり崩御された。宝算75。
治世が非常に長かったため、その間に聖徳太子含む彼女の子世代はみな薨去されたため、孫世代の舒明天皇が皇位を継がれた。