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仁科盛信の編集履歴

2020-07-23 04:40:49 バージョン

仁科盛信

にしなもりのぶ

仁科盛信とは戦国時代の武将である。

生没年 弘治3(1557)年~天正3(1582)年


概要

武田信玄の5男で、側室の油川夫人の子。同母兄弟に松姫織田信忠婚約者)、菊姫上杉景勝正室)がいる。

永禄4(1561)年に信濃・安曇郡を領有する仁科氏の名跡を継ぎ、信越国境の守備に当たっていた。


それが一変するのは、異母兄・勝頼の代になってからである。天正7(1579)年に武田・上杉間で同盟が締結されたことで、武田の主敵が織田・徳川、さらに御館の乱で敵対した北条氏に変わり、南と西に注力する必要が生じてきたのである。

そこで勝頼は、天正9(1581)年に盛信を南信濃の高遠城主に任命した。高遠城は伊那地方の重要拠点であり、ここを敵に制圧されれば中信地方のみならず、諏訪地方から甲斐への道も開けてしまうことから、盛信がそれだけ勝頼に信頼されていたことがうかがえる。


高遠城の戦い

天正10(1582)年2月、木曽義昌の謀反を皮切りに織田信長・信忠が木曽・伊那方面から、徳川家康が駿河方面から武田領への侵攻を開始した。2月末までに南信濃の諸将は降伏・逃亡によって織田軍の軍門に下り、残るは高遠城のみとなっていた。

3月1日に信忠率いる織田軍3万が高遠城を包囲し、会場を促す使者を送り込むも盛信は敢然と拒絶、翌2日に織田軍の攻撃が開始された。

高遠城に籠る武田軍は老若男女合わせて3千、10倍の兵数差は覆せずその日のうちに落城、城兵はほぼ全滅し盛信も自害して果てた。


それから10日後の3月11日に、勝頼と嫡男の武田信勝も自害し、武田家は滅んだ。武田家最期の1ヵ月半でまともな戦いが行われたのは結局高遠城のみであり、盛信は武田家最後の意地を見せることになったのであった。


関連タグ

戦国時代 中部勢

武田信玄…父

武田義信 武田勝頼…異母兄

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