ネロ・カエサル・アウグストゥス
ねろかえさるあうぐすとす
概要
西暦37年生~68年没。
本名はネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス、またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス。
キリスト教の価値観の影響で、暴君として後世語り継がれる人物だが、実際はそこまで暴君ではなかったとも言われる。優れた文化人・慈善家の側面も持っていた。
出自
クラウディウス帝の従兄・グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスを父、カリグラ帝の妹・小アグリッピナを母に持つ。出生時の名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。すでに故人となっていた母方の祖父ゲルマニクスはクラウディウス帝の兄で、父よりも年下であった。実父と養父が祖父母と同年代で、かなり年を食っていたのが特徴である。
ドミティウスが3歳の時に父が亡くなり、母はカリグラから疎まれポンティアエへ島流しになり、父方の叔母ドミティア・レピダに育てられた。ドミティアは、彼の最初の妻、オクタヴィアの母方の祖母にあたる。
41年、カリグラが暗殺され、小アグリッピナはローマに戻り、元老院議員サルスティウスと結婚するが数年後に先立たれ、サルスティウスの持つ不動産を相続した。
小アグリッピナは息子ドミティウスを後継者にすべくクラウディウスに近付き、49年、法律で許可されていなかった叔姪婚を行った。
50年にドミティウスはクラディウスの養子となり、ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルススと名乗り、51年に実子ブリタンニクスを差し置いて皇帝の公式相続人となる。
小アグリッピナは将来のネロの権力基盤を固めるべく、ブリタンニクスの排除、クラウディウスの娘オクタヴィアとネロの婚姻、軍事的な基盤としてセクストゥス・アフラニウス・ブッルスを親衛隊長官へ登用、ネロ側近として小セネカの法務官への選出など、次々と手を打った。
54年、小アグリッピナの専横が目立つようになり、対策を協議しようとしていた矢先、クラウディウスは食中毒で死亡する。小アグリッピナが毒キノコ入りの料理でクラウディウスを暗殺したとも言われる。これによりネロが皇帝に即位した。
皇帝ネロの治世
当初、ネロは名君の誉れが高かった。東方諸国との外交にも成功し、その後50年以上平和を保つことができた。
しかし、ネロは次第に母親の干渉を疎ましく思うようになり、小アグリッピナもネロ側近の小セネカ、ブッルスらと対立するようになる。
小アグリッピナは未だ帝位継承権を保有するブリタンニクスに接近し、ネロに代わる自らの傀儡としようとするが、ブリタンニクスは55年に毒殺され、ネロと小アグリッピナの間に緊張が高まった。
またこの頃、ブッルスがファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を企んでいるとの告発があり、告発者が裁判で負けて追放されたが、以降ネロの側近たちも保身に努めるようになった。
ネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとすると小アグリッピナとの対立が深まり、59年に小アグリッピナを殺害した。また、ファウストゥスをマッシリアへ流罪にし、刺客を送って殺した。
60年、イケニ族の女王ブーディカがブリタンニアで反乱を起したが、平定後、ネロはブリタンニアへの厳しい締め付けを批判し、穏健策が取られる事となった。これによりローマのブリタンニア支配は410年まで続いた。
62年にブッルスが死去し、横領の咎で小セネカを失脚させると、ネロはオクタウィアを離縁し自殺させた。すぐにポッパエアと結婚し、娘が生まれた。ネロは母子共に「アウグスタ」の称号を与えたが、娘は数ヶ月のちに死亡した。
64年7月19日に起きた「ローマ大火」では陣頭指揮して被災者の救済に当たり、火災の反省から木造建築をコンクリート建築に改めたローマ市の再建は後世に至るまで評価され、大火後行った貨幣改鋳は、その後150年間継続された。しかし、放火犯・火事場泥棒としてキリスト教徒を迫害したことから、ローマのキリスト教化以降は暴君の代表とされるようになる。
65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚し、これに連座した小セネカは自殺させられた。
この年、妻ポッパエアが死去した。
68年、ガリア・ルグドゥネンシス総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスが反乱を起こし、ガルバを皇帝に擁立し、呼応する形でヒスパニア・タッラコネンシスの総督セルウィリウス・スルピキウス・ガルバ、ルシタニア総督オトもこれに加わった。
元老院はガルバを「国家の敵」として弾劾したが、反乱軍がローマに迫るとガルバを皇帝に推挙し、ネロを「国家の敵」とした。
親衛隊はガイウス・ニュンピディウス・サビヌスによって買収され、直属兵力を失ったネロはローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れたが、喉を剣で貫き自殺した。
享年30歳。ネロの墓にはローマ市民からの献花や供物が絶えなかったという。