概要
本名は楊広と言い、隋の初代皇帝楊堅の次男として西暦569年に誕生した。
国内では大規模な運河(大運河)建造を行い、対外的には高句麗への遠征を3度にわたって行ったため、国力を著しく衰えさせ内乱を誘発させた。
618年4月11日、最期は近衛軍の謀反によって末子とともに処刑された。
中国史上屈指の暴君とも言われており、煬(天に逆らい、民を虐げる)と言う蔑称が諡号として用いられた。
日本では、聖徳太子が『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや』と言う国書を贈った皇帝として名が知られている。これは、『日出ずる処』を日本、『日没する処』を隋とし、日本と隋があたかも対等な関係であるかのような文章である。当然煬帝はこれに腹を立て、日本との交易を打ち切ろうとしたが当時の隋は国の四方が敵だらけであり、そこへもってきて高句麗との外交関係も悪化していた。「交易を続けとかないと後がコワイ」と踏んだ煬帝は裴世清を遣わし日本と交易を続行したという。