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麋竺の編集履歴

2021-05-05 10:57:28 バージョン

麋竺

びじく

麋竺とは、中国の後漢末期の政治家。字は子仲。

概要

徐州東海郡朐県の人。弟に麋芳、妹に麋夫人劉備の夫人)。子は糜威。孫は糜照。


糜家の先祖は代々利殖に励み、家は非常に裕福で巨億の資産を有していたという。

後に徐州牧の陶謙に招かれて別駕従事の職にあった。陶謙の死後、小沛に駐屯していた劉備を新たな徐州牧に迎える。


劉備が袁術と抗争している中、客将として留守をしていた呂布に本拠地の下邳を奪われてしまい、劉備は広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕2千人と金銀貨幣を割いて劉備に与えた。劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返すことができた。


劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。後に糜竺は左将軍従事中郎に任命された。

劉備が益州を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の諸葛亮を上回る席次の官位の上、劉備に古くから付き従った家臣である孫乾簡雍よりも上位であった。これは、上記の財産を分け与えて劉備を救ったことによると思われる。


その後、弟の麋芳がに寝返り劉備の義弟・関羽を敗死させる一因となった時は、糜竺は処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。劉備は兄弟の罪に連座することはないと宥めたが、彼の怒りは収まることがなく、そのまま発病して1年程で亡くなった。


温和で誠実・善良な人柄であったが、人を御するのには得意ではなかったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いることはなかった。一方で文官のイメージが強いながら弓馬に長けており、子や孫まで皆がその道の達人だったという。


関連タグ

三国志 蜀漢 劉備

麋芳 孫乾 簡雍

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